薩摩藩の妨害で600万ドル調達に失敗2021/07/05 07:04

1867(慶応3)年3月、使節団はパリに到着、ナポレオン三世に謁見した。 万博会場へ行って驚く、薩摩が日本のスペースの1/3を占め、展示品を並べていた。 薩摩琉球国「グーベルマン太守サツマ」を名乗り、フランス人へ授与する勲章まで用意していた。 書記官の田辺太一が薩摩に抗議して交渉し、「琉球島王」の呼称を削り日本の国旗を掲げることにするが、「グーベルマン(政府)」を藩と解釈する決定的ミスをして、受け入れてしまう。 言葉の定義を、まず決める必要があった。 数日後、現地の新聞は一斉に「徳川将軍は日本の皇帝ではなく、薩摩ほかの大名と同等である」と書いた。 それは、600万ドル資金調達の為の会社に投資する人には、リスクになる。 薩摩は、2か月前にパリへ行って、準備していた。 五代友厚と親しいモンブラン伯爵がシナリオをつくった。 モンブラン伯爵は、相当怪しい人物で、薩摩と幕府の両方に働きかけたが、幕府は蹴っていた。 イギリス外務省の報告書には、幕府使節団の通訳アレキサンダー・シーボルト(フランツ・フォン・シーボルトの息子)が、以前イギリス領事館通訳だったので、薩摩藩に情報を伝えるスパイだったとある。

 ジャパンタイムズが、フランスの生糸独占輸入計画の暴露記事を発表した。 1860年には、英仏通商条約が締結され、互に自由貿易を保証していた。 たまたま前年の1866年メキシコ遠征に失敗して撤退した、フランスの外交政策の転換期で、ムスティエ(ムーティエ)外相は各国との協調を図っていて、ロッシュに注意し、日本との計画にストップをかけた。 600万ドル借款交渉は暗礁に乗り上げた。

 3か月前、ロッシュは慶喜に進言し、生糸独占輸入を蝦夷地の鉱山開発権と取り替える。 幕府は安政3(1856)年8月、函館の鉱山資源を調査し、見込みありとしていた。 慶喜は苦悩していた。 鹿島茂さん…慶喜は天皇主義者で、天皇による立憲君主制、自分が首相になる、郡県制の国をつくることを構想していた。 1867(慶応3)年5月、慶喜はフランス通の栗本鋤雲を呼び出し、日本の政治的主権者は徳川将軍であると、フランスや欧州各国に認識させよ、フランスに蝦夷地の鉱山開発権を提案し、600万ドルの資金調達を実現せよ、と指示した。 8月、栗本鋤雲はパリに着いたが、昭武一行は欧州各国へ旅行中だった。 交渉するが、フランスは鉱山の専門家が細かい資料のないことに難色を示す。

 10月14日、慶喜は大政奉還。 1868(慶応4)年1月3日、鳥羽伏見の戦い。 幕府は瓦解。 小栗上野介は、閏4月6日、知行地上州権田村で非業の死を遂げる、42歳だった。 木内昇さんは、栗本鋤雲を心の中で「栗本先輩」と呼んでいて、人柄がよく、情もある、人の使い方も上手い、フラットな考え方の人で、自分の能力を人のために使った人だと語った(磯田道史さんも大賛成)。 そして栗本は、パリでの交渉中、英仏代理戦争になることを恐れていた、勝海舟も「英は渇狼、仏は飢虎」と言っていた、と指摘した。 田辺太一は『幕末外交談』に、モンブラン伯爵を使わなかったのが失敗だと書いている。 島津斉彬が、若き五代友厚を起用し、五代友厚がモンブランを使ったという、異能、異才のつながりが薩摩の成功となった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック