「謎の絵師」東洲斎写楽〝発見〟2021/07/08 07:07

 蔦屋重三郎のことをいろいろ書いていて、東洲斎写楽については、ほとんど何も書かなかった。 少し時間を置きたかったのだ。 2010年秋のサントリー美術館『歌麿・写楽の仕掛け人 その名は 蔦屋重三郎』展は、第4章を「写楽〝発見〟 江戸歌舞伎の世界」とし、「蔦重は晩年、役者絵の出版に本格的に乗り出し、謎の絵師・写楽をプロデュースします。写楽の作品はすべて蔦重の元から出版されていますが、そのデビューは豪華な黒雲母摺(くろきらずり)の役者大首絵を28枚同時に出すという鮮烈なものでした。本章では、写楽の歌舞伎役者絵や相撲絵の名品を軸に、プロデューサーとしての蔦重の手腕を浮き彫りにします。」とした。 だが、図録では、写楽に描かれた役者や演目、大童山という少年力士については、くわしく解説されているのに、東洲斎写楽については解説も論文もまったくない。 写楽が「謎の絵師」といわれるように、何もわからないからだろう。

 山川『日本史小辞典』で、「東洲斎写楽」を見る。 「生没年不詳。寛政期の浮世絵師。伝歴は不明。1794年(寛政6)5月から翌95年1月にかけての約10カ月間(閏月を含む)に140余点の錦絵を制作。版元はすべて蔦屋重三郎。内容は江戸三座の役者絵と、当時人気をよんだ子供の相撲取大童山を描いた相撲絵に限定され、作風から94年の夏狂言に取材した第1期、秋狂言に取材した第2期、顔見世狂言に取材した第3期、新春狂言に取材した第4期にわけられる。第1期は黒雲母摺の役者大首絵、第2期は全身図で統一されており、第1期が最もすぐれ、しだいに画格の低下がみられる。」

 『広辞苑』は「徳島藩主蜂須賀氏のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛と伝える説が有力」、「大衆の人気が離反、浮世絵界から去ったと考えられる。似顔表現を利かした強烈な個性描写が特色。近代ヨーロッパで人気となり見直された。」とある。

 『大辞泉』には、「徳島藩主蜂須賀氏のお抱え能役者といわれるが不明」とあり、徳島市にある写楽の墓とされる写真がある。

 『日本大百科全書』には、「在世期に近い信ずべき文献資料としては、大田南畝原撰の『浮世絵類考』にみえる「写楽 これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが あまりに真を画かんとてあからさまにかきしかば 長く世に行われず 一両年にて止む」の記事や、八丁堀地蔵橋居住と文政元年(1818)以前に死没の事実を伝える『江戸方角分(ほうがくわけ)』の報告例などが、わずかにあげられるにすぎない。幕末の斎藤月岑(げっしん)は「俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者也」と考察(『増補浮世絵類考』)しており、注目されるが、いまだ確認されていない。(小林忠)」とある。

 『ブリタニカ国際大百科事典』には、「作品は主観的で特異な画風のため長く評価されなかったが、明治末期から役者似顔絵の極致を示すものとして重要視され世界的に有名になった。」とする。

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