東洲斎写楽は蔦屋重三郎説の榎本雄斎氏2021/07/11 07:14

 「謎の絵師」東洲斎写楽は誰かには、諸説ある。 8日に辞書・事典でみたように、「徳島藩主蜂須賀氏のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛と伝える説が有力」とされるが、確定的な証拠はない。 浮世絵師の喜多川歌麿、鳥居清政、歌川豊国、葛飾北斎、司馬江漢、はたまた十返舎一九や酒井抱一、神祇官・片山写楽だとする説もある。

 昭和44(1969)年、実業家(金庫商)の榎本雄斎氏(明治44(1911)年~1983(昭和58)年)が、美術研究誌『浮世絵芸術』に、東洲斎写楽は版元の蔦屋重三郎であるという説を発表し、単行本『写楽―まぼろしの天才』(新人物往来社)も出版した。 戸島幹雄さんから送られてきた資料の中に、榎本雄斎氏の戸島美穂さん宛書簡がある。 美穂さんから、戸籍謄本などの資料を送っているという記述もある。

昨日書いたNHKテレビ『歴史への招待』で、「美穂さんの先祖は、江戸時代、八丁堀で〝松芳〟という石屋をしていて、その〝松芳〟は蔦屋重三郎と深い親戚の間柄だった。 東洲斎写楽は蔦屋重三郎の厚い庇護のもとに八丁堀に住んでいたのではないだろうか」と、取り上げられた、八丁堀の石屋〝松芳〟について、榎本雄斎氏が調べたことが年不詳(昭和44(1969)年か)10月19日付書簡に書かれている。

 石問屋〝松屋〟の店舗の絵図がないかと調べていたら、『江戸名所図会』巻一(三十丁・三十一丁)に「三ッ橋(みつはし)」の項と絵図があるのが、見つかった。 「三ッ橋 一所(ひとところ)に橋を三所に架(わた)せし故にしか呼べり。北八丁堀より本材木町へ渡るを弾正橋(だんじょうばし)と呼び(寛永の頃今の松屋町の角に島田弾正小弼やしきありし故といふ。)、本材木町より白魚屋舗(やしき)へ渡るを牛の草橋といふ。又白魚屋敷より南八丁堀へ架するを眞福(示偏)橋と號(なづ)くるなり。」

 絵図の右下、弾正橋を渡って左折し、牛の草橋へかかる右手に、蔵と石を積んだ置き場の絵がある。 これが石問屋〝松屋〟なのであろう。 絵図の上の余白に、「菊の花さくや石屋の石の間 芭蕉 風羅袖日記 八丁堀にて」とある。

 榎本雄斎氏は手紙で、この図は、松濤軒斎藤長秋(斎藤月岑の祖父)が編輯し、長谷川雪旦に絵を描かし、『東都名所図会』と題して寛政12(1800)年に出版予定の遺稿ですが、何かと事故があって、孫にあたる斎藤月岑が総輯し、ようやく天保4(1833)年末に江戸書肆須原屋から上梓刊行されたもので、現在では昭和42(1967)年刊にて人物往来社から再刊され、上下二巻になっています、とある。

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