「俳諧化」、機知や滑稽へ洗練2021/07/17 07:14

 田中優子さんは「俳諧化」を、こう説明する。 たとえば芭蕉の「古池やかはづ飛び込む水の音」。 和歌の世界に登場する「かはづ」を背景にしていて、和歌の場合はカジカガエルのこと、鳥のようにきれいな声で鳴く。 和歌の「かはづ」は鳥と並ぶ存在で、登場したら必ず鳴く。 必ず「かはづ鳴く」というフレーズで表現される。 さらに、玉川と呼ばれるきれいな水、鳴くのは山吹が咲く季節、と組み合わせて、「かはづが鳴き」「きれいな水があって」「山吹が咲いている」となる。 この要素を揃えて、和歌はずっとつくられてきた。

 ところが、芭蕉の句では、「かはづ」が鳴かずに水に飛び込むわけだ。 鳴かない「かはづ」を芭蕉は登場させてしまった。 しかも飛び込むのはきれいな水ではなく、長い時間が層となって蓄積している「古池」だ。 これはつまり「かはづ」という言葉を軸にして、美しい幻想の世界から、現実の世界に転換してしまうわけである。 こういうのを「俳諧化」という。

 たぶんこの俳諧がつくられたときには、みんな笑ったと思われる。 俳諧という言葉は「滑稽」という意味でもあって、そうやって転換をすると同時にみんなで笑うものだった。

 松岡正剛さんは、付け合いも謎解きもあったし、俳諧の時代的な進捗ぶりは興味深い、と言う。 日本文化はいろいろな遊びで洗練されていったのだけれど、俳諧から芭蕉の「さび」や「しをり」(「しほり」とも書いた。人間や自然を愛憐をもって眺める心から流露したものがおのずから句の姿に現れたもの。蕉風俳諧の根本理念の一つ。『広辞苑』)に及んだというところは、一つの絶頂だとする。 もともとは山崎宗鑑や荒木田守武などの滑稽な俳諧連歌が戯れていて、それを松永貞徳が連歌の途中の俳諧句を自立させる。 あるとき貞徳が寄合いから帰ろうとすると、主人が見事な柿を持ち出して「これを俳諧の発句にしなければ帰さない」と言う。 たちまち「かきくけこ食はでは行かでたちつてと」とやった。 この機知の感覚が貞門の北村季吟とか田捨女(でんすてじょ)とかに流れて、「いつかいつかいつかと待ちしけふの月」とか「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」というふうになった。 その機知や滑稽をいかしたまま自立した俳諧俳句を西山宗因や芭蕉がさらに揉んでいくわけだから、これはたまらない。 その江戸の遊び心が明治の淡島寒月や子規、大正の寺田寅彦をへて昭和の石川淳に及んだところが俳諧のすごいところだと思う。 芭蕉は服部土芳が随聞記にした『三冊子』で、「俳諧は挨拶だ」とも言っている。

 不易流行と風雅の挨拶(田中優子)。 江戸文化はそういう挨拶が俳諧として、またさまざまな「滑稽」や「笑い」として風雅のほうへ洗練されていく。 風雅に行ってもなお、おかしみが残響する。 石川淳はそこに惚れた。 そうとうな文化の素養が交歓されるところも気にいったんだろう。 晩年は大岡進や丸谷才一と歌仙連歌をずっと遊んでいた。 「あまつさへ湖の香さそふ雨月かな」という句がある。 『雨月物語』の見立てだ。