熊本が先駆的、学習結社と政治結社2021/07/27 07:10

 松岡正剛さんは、熊本の時習館が先駆的で、そこから横井小楠や徳富蘇峰らの幕末・明治の活動家や著述家が登場してきたが、あの時期、もっといろいろのことが熊本に起こっていた、という。 一つは、宮崎三兄弟、民蔵・彌蔵・寅蔵。 寅蔵が、のちに孫文を扶(たす)けた宮崎滔天(とうてん)、彼は蘇峰がつくった大江義塾で学んだ。 もう一つは、小楠が実学党という運動を起こし、そこに蘇峰親子や横井時教(ときのり)が出てきて、やがて熊本洋学校をつくる運動が起こっていたこと。 この洋学校はジェーンズが教えた熊本バンド(花岡山バンド)になるもので、明治の海老名弾正(小楠の長女と結婚)、霊南坂教会の小崎弘道などの代表的なキリスト者をつくっていく。 その熊本バンドを京都にもってきたのが新島襄の同志社だ。

 もっと複雑ないろいろの動きがあるのだが、ともかくそういった結社や私塾から、その後の近代日本が生れていった。 自由民権運動も憲法草案も生まれていった。 しかも、あんなになくたっていいだろうと思うくらい、たくさんの結社が生れていった。

 田中優子…千葉卓三郎の五日市憲法や交詢社憲法、植木枝盛の憲法案など、私擬憲法案が主要なもので16ぐらい、総数は60ぐらいあったとされている。 自由民権の結社については、色川大吉が『自由民権』(岩波新書)に詳細に書いている。 「〝学ぶ〟〝助ける〟〝稼ぐ〟〝戦う〟〝楽しむ〟〝開く〟ことによって、人間の全体性の実現をめざす新しい結社」と表現し、その数は、運動が活発だったとわかっている20県だけでも2000社を越えると述べている。 その性格を、「純然たる学習結社」「純然たる政治結社」「学習結社と政治結社の両方を兼ね備えた結社」「民衆生活一般に関する結社」と分類しているが、これは、あきらかに江戸時代の民衆の行動様式だ。