『歴史探偵』徳川慶喜・大政奉還の謎2021/07/06 07:05

 6月16日放送のNHK総合『歴史探偵』「謎の将軍 徳川慶喜」という番組も見た。 (1)大政奉還の謎、(2)鳥羽伏見の戦いの謎、に迫る。

 徳川慶喜は維新後、趣味の世界に没頭し、人と会うのを避け続けていたが、 渋沢栄一が死後に公開する約束で、69歳の慶喜から1907(明治40)年7月から25回にわたって浮月楼(静岡市)で、回顧談を聞き取り、『昔夢会筆記』にまとめている。 徳川宗家は継いだものの、受け難しと拒んでいた将軍に、なぜなったかについては、「板倉伊賀守(勝静)、永井主水正(尚志)が、くる日もくる日も来りて、迫るのみ」だったから、とある。 (1)大政奉還については、「政権返上、一同がそれを承知して、未曾有の御英断で有難いことでござると、お辞儀をした」、「一同合意」とある。

 だが、『昔夢会筆記』には、「わからない」とか「覚えていない」という「本心を隠す」表現がある。 そこで、静岡大学情報学部狩野芳伸准教授(行動情報学)がAIを使い、『昔夢会筆記』の全文をコンピューターに読み込んで、「あいまい表現」をあぶり出してみたら、「一同合意」という(1)大政奉還の部分は「本音を話していない 90%」だった。

 大政奉還が行われた二条城で、木村幸比古霊山歴史館学術アドバイザーの話を聞く。 慶喜は、1867(慶応3)年10月11日、国家の大事について相談したいと、各藩の代表を呼び出した。 1日目の12日は、黒書院で徳川家の家臣に話し(教科書にある絵はここだが、現在二条城の大広間にその模様の人形が展示されている)、2日目の13日は、大広間に藩の代表を集めた。 『史談速記録』らよると、慶喜は事前に、後藤象二郎(土佐)ら三人(内通者)に根回しし、当日、反対の者を論破してくれるように打合せしてあった。 40藩、50人が出席したが、大政奉還の提案に、藩の出先や国許に意見を聞きに行く者が続出、50人が6人になったところで、後藤ら内通者が賛成の意見を述べ、他も「一同賛成」と、シナリオ通りに進められて、翌14日大政奉還となった。 慶喜としては、その後も新政権に参加して、主要なポストを占めるつもりだった。

 10月13日には、薩摩に倒幕の密勅が出ている。 慶喜は、この薩摩と朝廷の動きを察知していて、朝敵になることを避け、機先を制して大政奉還したのではないか、というのだ。

『歴史探偵』徳川慶喜・鳥羽伏見の戦いの謎2021/07/07 06:59

『歴史探偵』「謎の将軍 徳川慶喜」(2)鳥羽伏見の戦いの謎。 『昔夢会筆記』には、「いかようにも、勝手にせよ」と申したのは「一期(一生)の失策」とある。

大政奉還から2か月後の12月、大事件が起こる。 薩摩藩が天皇のいる御所を封鎖、慶喜を排除した新政府を樹立した。 京にいた慶喜は、薩摩と戦うのではなく、大坂城に退く決断をする。 宮本裕次大阪城天守閣研究副主幹は、慶喜は本丸御殿で指揮に当っていたが、幕府艦隊は大坂湾を封鎖して薩摩の兵站を抑えられるし、大坂城は巨大な石垣と幅の広い堀で鉄壁の守りで、攻められるのを待っていれば十分戦え、状況をひっくり返すことが出来た、と言う。 徳川幕府軍と薩摩軍の勢力はどうか。 徳川軍は1万5千、新式のシャスポー銃も持っていた。 それに対し、薩摩軍は4千だった。

誤算の第一は、江戸で薩摩が放火など攪乱行為をしたこと。 江戸の人は怒って、薩摩藩邸を焼き打ちした。 その情報に徳川家大目付滝川具挙(ともたか)は、兵を挙げることを慶喜に求め、戦さを拒めば、激高した兵に慶喜が殺されると伝えた。 慶喜は「いかようにも、勝手にせよ」と、戦いを認めた。 1868(慶応4)年1月2日、徳川軍は大坂城を出て、進軍を開始する。

誤算の第二。 《戊辰戦記絵巻》の彩色プロジェクトが進み、詳細に描かれた戦いの様子を見ると、徳川軍はまるで緊張感がない。 銃に玉を込めていなかったという証言もある。 油断と兵力を温存する慢心もあった。

第三、最大の誤算。 薩摩軍が「錦の御旗」を掲げたこと(仁和寺に保存されている現物を映した)で、「朝敵」になるというので幕府軍に寝返りが続出した。 幕末史の家近良樹大阪大学名誉教授は、これは慶喜が一番突きつけられたくなかったことで、大坂城を脱出、江戸へ戻る、徳川の大敗となった。

この(2)を解説していた河合敦多摩大学客員教授(日本史)は、徳川慶喜を「孤高の人」「独断専行」とした。

「謎の絵師」東洲斎写楽〝発見〟2021/07/08 07:07

 蔦屋重三郎のことをいろいろ書いていて、東洲斎写楽については、ほとんど何も書かなかった。 少し時間を置きたかったのだ。 2010年秋のサントリー美術館『歌麿・写楽の仕掛け人 その名は 蔦屋重三郎』展は、第4章を「写楽〝発見〟 江戸歌舞伎の世界」とし、「蔦重は晩年、役者絵の出版に本格的に乗り出し、謎の絵師・写楽をプロデュースします。写楽の作品はすべて蔦重の元から出版されていますが、そのデビューは豪華な黒雲母摺(くろきらずり)の役者大首絵を28枚同時に出すという鮮烈なものでした。本章では、写楽の歌舞伎役者絵や相撲絵の名品を軸に、プロデューサーとしての蔦重の手腕を浮き彫りにします。」とした。 だが、図録では、写楽に描かれた役者や演目、大童山という少年力士については、くわしく解説されているのに、東洲斎写楽については解説も論文もまったくない。 写楽が「謎の絵師」といわれるように、何もわからないからだろう。

 山川『日本史小辞典』で、「東洲斎写楽」を見る。 「生没年不詳。寛政期の浮世絵師。伝歴は不明。1794年(寛政6)5月から翌95年1月にかけての約10カ月間(閏月を含む)に140余点の錦絵を制作。版元はすべて蔦屋重三郎。内容は江戸三座の役者絵と、当時人気をよんだ子供の相撲取大童山を描いた相撲絵に限定され、作風から94年の夏狂言に取材した第1期、秋狂言に取材した第2期、顔見世狂言に取材した第3期、新春狂言に取材した第4期にわけられる。第1期は黒雲母摺の役者大首絵、第2期は全身図で統一されており、第1期が最もすぐれ、しだいに画格の低下がみられる。」

 『広辞苑』は「徳島藩主蜂須賀氏のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛と伝える説が有力」、「大衆の人気が離反、浮世絵界から去ったと考えられる。似顔表現を利かした強烈な個性描写が特色。近代ヨーロッパで人気となり見直された。」とある。

 『大辞泉』には、「徳島藩主蜂須賀氏のお抱え能役者といわれるが不明」とあり、徳島市にある写楽の墓とされる写真がある。

 『日本大百科全書』には、「在世期に近い信ずべき文献資料としては、大田南畝原撰の『浮世絵類考』にみえる「写楽 これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが あまりに真を画かんとてあからさまにかきしかば 長く世に行われず 一両年にて止む」の記事や、八丁堀地蔵橋居住と文政元年(1818)以前に死没の事実を伝える『江戸方角分(ほうがくわけ)』の報告例などが、わずかにあげられるにすぎない。幕末の斎藤月岑(げっしん)は「俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者也」と考察(『増補浮世絵類考』)しており、注目されるが、いまだ確認されていない。(小林忠)」とある。

 『ブリタニカ国際大百科事典』には、「作品は主観的で特異な画風のため長く評価されなかったが、明治末期から役者似顔絵の極致を示すものとして重要視され世界的に有名になった。」とする。

渋沢栄一、パリ万博へ2021/07/09 07:17

 ちょいと、東洲斎写楽はお休み。 7月4日放送の『青天を衝け』第21回「篤太夫、遠き国へ」。 水戸侍を見張るのには渋沢がいいという慶喜の思い付きで、その側近、原市之進(尾上寛之)に呼び出された篤太夫は、慶喜の弟、民部公子昭武(板垣李光人)に随行してパリへ行くことを打診される。 原市之進の懸念をよそに、篤太夫はたまげたことだがと快諾、平岡円四郎様もそうだったが、今度は殿が、たまげた道を開いて下さった、僥倖だ、一条の光が射した、おかしろくも胸がグルグルする、と喜ぶ。

 孝明天皇(尾上右近)の強い希望もあり、慶喜は15代将軍の座につく。 しかし、天皇は内侍所(賢所)の御神楽(みかぐら)、雪降る寒い中、四時間の祭祀で、体調を崩し、病に伏せる。 睦仁親王(後の明治天皇。犬飼直紀)は、枕元に寄るなという天皇に、種痘を受けたから大丈夫と応える(倒幕派による毒殺説もあるが、ドラマはワクチン推奨の疱瘡説だった)。

 篤太夫は、大目付永井尚志(中村靖日)から会計掛を命じられ「仏行御入用帳」を渡され、跡継ぎがないなら「見立て養子」を立てるように言われる(後で尾高平九郎を立てる)。 将軍になり第三代(三世)ナポレオン皇帝に贈られたという軍服洋装の慶喜は、篤太夫を昭武と引き合わせ、昭武に五つの指令を与える。 (1)欧州五か国を親善訪問する、(2)フランスで3~5年以上学問をする、(3)その師を敬え、(4)日の本に常ならぬ事態が起こっても、みだりに動くな、(5)欧行の一行、一和円満に。

 慶喜は人払いして、篤太夫に言う。 どうする渋沢、将軍になってしまった、内外多難、私の力ではとても及ばない、将軍を出せる家柄の若い昭武に学問をさせて、将軍を継がせたい。 問題は、昭武が一人前になって戻るまで、公儀を潰さずにいられるかどうかだ。 「人の一生は重荷を負い遠き道をゆくが如し いそぐべからず不自由を常と思へば不足なし」…「勝事(かつこと)ばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。」 慶喜と唱和した篤太夫、「人の一生とは何と摩訶不思議なことでございましょう。上様と大権現様のご遺訓を唱えることができるなんて」と。

 1月11日、パリへ横浜からアルフェー号で出発する前、篤太夫は神奈川奉行所で、パリ万博使節団で共に行く外国奉行向山一履(岡森諦)、医師高松凌雲、外国方杉浦愛蔵(志尊淳)、組頭田辺太一(この二人は二度目のフランス)に会う。 杉浦には、外国方の福地源一郎(犬飼貴丈)、福沢諭吉(中村萬太郎)も紹介され、福地はフランスで近づいて来るモンブランには気を付けろ、薩摩に通じているからと、注意する。 この福沢さん、背が低く、おだやかな感じだった。

一行は勘定奉行小栗忠順(武田真治)、外国奉行栗本鋤雲(池内万作)から、博覧会の事務はレセップ、財務・交渉はフリュリエラールが担当する、使節団のもう一つの目的は600万ドルの借款だと言われる。 小栗は篤太夫に、6年前にメリケンで蒸気機関で動く造船所を見て来た、このネジも機械で作っていた、600万ドル(450万両)の借款で造船所をつくる、公儀は三年先、いや一年先もわからぬが、造船所は日本の役に立つ、後々、徳川のおかげで助かったと言われるかもしれぬ、共に励もうぞ、と言う。

蔦屋重三郎と深い親戚、八丁堀の石屋〝松芳〟2021/07/10 07:05

 6月22日の「蔦屋重三郎とその時代」から始めて、車浮代の小説『蔦重の教え』(双葉文庫)を読んだのは、6月28日にふれたように、高校時代の同級の仲間の一人が、蔦屋重三郎の末裔であるという話を聞いていたからだった。 彼は戸島幹雄さん、島津製作所を勤め上げた、クラシック音楽とマラソンの愛好家である。 『蔦重の教え』の広告のことをメールすると、関連の資料を沢山コピーして送ってくれた。 父上戸島逸郎さんが画家・グラフィックデザイナーと承知していたから、蔦屋重三郎につながるのは父上かと思っていたら、大正8(1919)年生れ102歳になられる母上美穂さんの田中家の方だった。

 NHKテレビにかつて、鈴木健二アナの司会で『歴史への招待』という番組があった。 「写楽を売り出した男 蔦屋重三郎」の回があり、山本七平(イザヤ・ベンダサン名義の『日本人とユダヤ人』は、私も読んだ)、安達以乍牟がゲスト、蔦屋重三郎の親戚だったということで、戸島美穂さんが出演している。

 昭和58(1983)年11月7日発行の書籍版『歴史への招待』27に記事がある。 美穂さんの先祖は、江戸時代、八丁堀で〝松芳〟という石屋をしていて、その〝松芳〟は蔦屋重三郎と深い親戚の間柄だった。 東洲斎写楽は蔦屋重三郎の厚い庇護のもとに八丁堀に住んでいたのではないだろうか、というのだ。 美穂さんは、父から聞いたつづらの話を覚えていた。 つづらには蔦屋重三郎から預かった浮世絵の版木が入っていて、春画もあったので子供が見るんじゃないと母親にうんと叱られたという。 蔦屋重三郎の兄弟が、〝松芳〟に片付いている兄弟関係だったので、寛政の松平定信の奢侈禁止で闕所になった頃、内緒で預かったんじゃないか、今あれば、大したもんだと美穂さんの亡くなった父が言っていたそうだ。 〝松芳〟にあったつづらは、その後火事で失われて今はない。

 この番組で山本七平は、東洲斎写楽という人物を、「彼(蔦屋重三郎)の工房で、恐らく蔦屋出版部の編集部でごろごろしていた人ではないでしょうか。恐らく一人もしくは数人でしょうね」、蔦重という出版プロデューサーが作り上げた一つの人物であり、作品である、「そこまでは言っていいと思います。それを特定の個人のだれということはひじょうにむずかしくても、そこまでは間違いないと思います。」と語っている。