「福沢諭吉の本当の師は野本真城」(二)2021/08/07 07:00

 平山洋さんは、長崎遊学の嘉永7(1854)年2月から逆算して、福沢諭吉が漢学を学ぶため服部五郎兵衛についたのは早くて弘化4(1847)年、白石照山に入門したのは嘉永2(1849)年と、推測している。 そしてその中間に通った「いなかの塾」というのは、野本真城(白岩)の童蒙帳(寺子屋)で、20キロも離れた宇佐郡院内村香下白岩ではなく、真城が転居して弘化4(1847)年に開いた下毛郡秣(まぐさ)村の塾だろうと考えている。 現在では中津市内の三光西秣と呼ばれている地区で、福沢の留守居町の家からはおよそ10キロほどの所である。 真城が秣村に塾を開いたのは、弘化4(1847)年と嘉永元(1848)年の2年間だけというから、福沢が通ったのは嘉永元(1848)年だろう。

 平山洋さんは、こう指摘する。 野本真城は、天保13(1842)年に隠居蟄居を命じられるまで、藩内改革党の思想的背景だった。 残されている史料から判断して、漢文に訳された西洋の文献を収集してその理解に勉めていたようだ。 国際情勢の把握についても、長崎に近い中津は、上方や江戸に比べても世界に対してより開かれていたといってもよいほどである。 要するに、門下生にとって真城は、博識多才、漢学ばかりではなく蘭学についても一通り以上の素養があり、下士身分の若者には今日でいう数学や経済学を伝授することで出世の糸口を見つけてやり、さらに頼山陽直々の日本史の知識まで身につけていた、という魅力的な先生であったのである、と。

 嘉永2(1849)年になると、英米の軍艦が日本近海に現れ、江戸湾への侵入経路を測量したり、伊豆の下田に強制的に入港したりする。 居てもいられなくなった野本真城は、翌嘉永3(1850)年、当時としては高い水準にあった西洋の知識を駆使して、「海防論」を書いた。 それは大型船に大砲を積むことでより機動的な防衛を行うべきだ、という提言を含む、近代的海軍創設を強く希求した内容だった。 ペリー黒船来航の嘉永6(1853)年より、3年前のことである。 真城は、嘉永4(1851)年には江戸に出て、「海防論」を藩政に反映させようとしたらしい。