福沢諭吉の国際関係理解2021/08/16 08:20

 2月25日から松沢弘陽さんの三十数年にわたる福沢研究を集成した『福澤諭吉の思想的格闘 生と死を超えて』(岩波書店)を第I部「福澤諭吉の西欧体験」から読み始め、第II部「国民国家形成の構想」第五章『文明論之概略』成立事情まで来た3月14日の『文明論之概略』の主題を四つにまとめるで、一時中断し、バランスを取って柳家小三治の話をしているうちに、そのままになってしまっていた。

 第I部「福澤諭吉の西欧体験」は、福沢がイギリスで受けた衝撃的な経験を検証したものであったが、その中に2006年3月25日の福澤諭吉協会の土曜セミナーで松沢弘陽さんの「福沢諭吉とmid-Victorian Radicalism -『福翁自伝』を手がかりに」を聴いて書いたことを、こう紹介していた。

 ロンドンで読んだGeorge Crawshayの建言書が、福沢に与えた衝撃は大きかった。 36年後の『福翁自伝』に「開国一偏の説を堅固にした」と書くほどに…。 それはまた福沢の国際関係理解を深めた。 主権国家間の権力政治と万国公法の存在に注目し、万国公法がヨーロッパの内でも外でも実効性を持つと判断した。 万国公法の裏付けとしての(1)世論(自発的結社が力を持つ)、(2)福沢のいう「権力の平均」(ヨーロッパでのバランス・オブ・パワー)を知った。

 福沢は文久3(1863)年末?の隈川宗悦・南條公健宛書簡で、英艦隊の鹿児島砲撃の際の、非戦闘員、民家への攻撃に対する英国世論の批判を紹介している。 慶應2(1866)年の長州再征に関する建白書でも、世論に働きかけるべきだと述べている。

 福沢におけるGeorge Crawshayの建言書の衝撃は、一朝一夕に消えたのではなく、かなり長くその国際関係理解に影響を与えた。 しかし、それほど長くは続かなかった。 明治11(1878)年「通俗国権論」に、「万国公法」と「条約」へのシニシズム、明治14(1881)年「時事小言」第四編に、「万国公法」も「権力の平均」も「キリスチャン・ネーション」の間のみ(ヨーロッパの中だけ、これが福沢の条約改正論の根拠)、とある。

 George Crawshay とForeign Affairs Committeeの活動についての松沢弘陽さんの話を聴きながら、私がしきりに思っていたのは、その後のイギリスの例のバルフォア宣言(1917)に端を発する中東問題、そして現在のアメリカの外交政策と戦争のことだった。 イギリスがバルフォア宣言によってパレスチナに民族の故郷を認める一方、二枚舌でアラブの独立も認めていたことが、今に至るイスラエルとアラブの抗争をもたらした。 Foreign Affairs Committeeのような活動が世界中で、もっと活発で、有効に機能すれば、アメリカやイギリスのそれらの政策はチェックできたのではないか。 それが実現していない世界は、少しも進歩していないのだろうか、というようなことだった。