「福沢諭吉の本当の師は野本真城」(一)2021/08/06 07:00

  3日に出した「等々力短信」「平山洋著『福澤諭吉』の挑戦」でも、ちょっと書いたことだが、平山洋さんがYouTube授業で話していた二点に触れておく。

  まず、平山洋さんが最近開館した慶應義塾塾史展示館の展示には出て来ないアンオフィシャルな話として、福沢諭吉の本当の師は野本真城だと言っていた件である。 3日の「平山洋著『福澤諭吉』の挑戦」でも、「福沢の思想形成に郷里中津の儒者野本真城が大きな影響を与えていた。」が、「『福翁自伝』では秘匿されたのか登場しない」と書いていた。 野本真城については、最近も 福沢諭吉と杵築、臼杵、「中津藩の漢学」<小人閑居日記 2021.7.28.> 福沢諭吉の「中津での学問」<小人閑居日記 2021.7.29.> で、野本白巌(通称武三、号は真城山人。1797~1856)の名で書いていた。

 あらためて、平山洋さんの『福澤諭吉 文明の政治には六つの要訣あり』で「野本真城」を読んでみよう。 野本真城は、福沢諭吉の父百助の5歳下の親しい友人、12歳で豊後の帆足万里に数学を学び帆足万里門下の四天王の一人と目されていた俊才で、藩校進脩館で父野本雪巌に続いて教鞭をとり、17歳で京都に出、頼山陽に日本史や古文を学び、頼山陽が『日本外史』を仕上げる時期に協力している。 この本は、幕末の尊王思想の源流になった。 野本真城は、帆足万里と、頼山陽と、まったく分野は異なりながら、幕府が正学と定めた朱子学から離れた学者を師匠としていた。 真城の門下生には、帆足の数学や物理学を引き継ぐ者(実学派)と、頼山陽の尊王思想を自らのものにした真城に魅力を感じていた人々(尊王派)の両方がいた。

 野本真城は、文政10(1827)年主君の側近として江戸詰を命じられ、天保6(1835)年(福沢諭吉が大坂で生まれた翌年)藩校学長となり、天保13(1842)年まで務める。 天保11(1840)年、中津藩で「天保子年の改革」と呼ばれる大改革が断行されようとしていた。 藩財政立て直しのため、使用人を含む家族の人数に応じて米を支給する人別扶持(にんべつふち)制を導入しようとするものだった。 経済に明るい野本は賛同し、小幡篤蔵(小幡篤次郎の父)や島津祐太郎は同志だった。 家老山崎主馬を中心に上級の藩士たちが既得権を守るために激しく抵抗した。 中津藩の家臣団は、この天保末期に、仮に改革党と保守党と呼ぶ勢力に分裂した。 保守党は現実に大きな権力を握っていた。 真城らは、改革を当時の主君奥平昌猷(まさみち)に上申した。 家老山崎はそれを僭越として真城を処罰しようと画策するが、真城は藩校の学長だけでなく主君の近習(補佐官)でもあった。 結局、人別扶持制は藩内の混乱を理由に一時中止とされた。 真城がこの時点で何らかの処罰を受けた気配はない。

 翌天保12(1841)年、老中水野忠邦による天保の改革が始まり、中津藩でもそれまでは一度に支給していた米を月割りで下げ渡す家中半知令が実施された。 人別扶持制よりは穏健な策だが、上級藩士にも痛みを伴うものだった。 翌天保13(1842)年9月に29歳の主君昌猷が中津で没すると、江戸にいた13歳の新主君昌服(まさもと)のお国入りを待つこともなく、野本真城は蟄居隠居を申し渡されてしまった。 真城時に46歳、父の雪岩(雪巌)の出身地、中津城の南東20キロほどの山間に位置する宇佐郡院内村香下白岩(しろいわ)に蟄居し、以後白岩(白巌・はくがん)と号する。

「福沢諭吉の本当の師は野本真城」(二)2021/08/07 07:00

 平山洋さんは、長崎遊学の嘉永7(1854)年2月から逆算して、福沢諭吉が漢学を学ぶため服部五郎兵衛についたのは早くて弘化4(1847)年、白石照山に入門したのは嘉永2(1849)年と、推測している。 そしてその中間に通った「いなかの塾」というのは、野本真城(白岩)の童蒙帳(寺子屋)で、20キロも離れた宇佐郡院内村香下白岩ではなく、真城が転居して弘化4(1847)年に開いた下毛郡秣(まぐさ)村の塾だろうと考えている。 現在では中津市内の三光西秣と呼ばれている地区で、福沢の留守居町の家からはおよそ10キロほどの所である。 真城が秣村に塾を開いたのは、弘化4(1847)年と嘉永元(1848)年の2年間だけというから、福沢が通ったのは嘉永元(1848)年だろう。

 平山洋さんは、こう指摘する。 野本真城は、天保13(1842)年に隠居蟄居を命じられるまで、藩内改革党の思想的背景だった。 残されている史料から判断して、漢文に訳された西洋の文献を収集してその理解に勉めていたようだ。 国際情勢の把握についても、長崎に近い中津は、上方や江戸に比べても世界に対してより開かれていたといってもよいほどである。 要するに、門下生にとって真城は、博識多才、漢学ばかりではなく蘭学についても一通り以上の素養があり、下士身分の若者には今日でいう数学や経済学を伝授することで出世の糸口を見つけてやり、さらに頼山陽直々の日本史の知識まで身につけていた、という魅力的な先生であったのである、と。

 嘉永2(1849)年になると、英米の軍艦が日本近海に現れ、江戸湾への侵入経路を測量したり、伊豆の下田に強制的に入港したりする。 居てもいられなくなった野本真城は、翌嘉永3(1850)年、当時としては高い水準にあった西洋の知識を駆使して、「海防論」を書いた。 それは大型船に大砲を積むことでより機動的な防衛を行うべきだ、という提言を含む、近代的海軍創設を強く希求した内容だった。 ペリー黒船来航の嘉永6(1853)年より、3年前のことである。 真城は、嘉永4(1851)年には江戸に出て、「海防論」を藩政に反映させようとしたらしい。

「福沢諭吉の本当の師は野本真城」(三)2021/08/08 07:42

 中津藩で西洋砲術導入の機運が高まったのは、そのペリー来航3年前のことだった。 中津藩は、嘉永2(1849)年12月の老中首座阿部正弘の海防通達から約半年後の嘉永3(1850)年7月、江川英龍門下の砲術家松代藩士佐久間象山を軍事顧問として採用した。 その世話をしたのは、江戸詰の軍学者島津良介を中心として、息子島津文三郎、岡見彦三、土岐太郎八らであった。 福沢諭吉は8年後岡見の周旋で江戸に着任し、さらにその2年後島津夫妻の媒酌で土岐の娘と結婚することになるが、当時の江戸家老は奥平壱岐だった。

 佐久間象山は、嘉永3(1850)年から嘉永6(1854)年までの4年間、二本榎(高輪)の下屋敷で、藩兵を指導して、西洋砲術の軍事教練を行なった。 象山の門人帳『及門録』には、島津、岡見のほか吉田権次郎、横山犀蔵など百人近くの中津藩士の名がある。 そればかりか江戸最高の砲術家ということで、『及門録』には、山本覚馬(会津藩)、勝海舟(幕臣)、津田真道(津山藩)、小林虎三郎(長岡藩)、吉田松陰(長州藩)、加藤弘之(出石藩)、河井継之助(長岡藩)、橋本左内(福井藩)の名もある。

 中津では、嘉永3(1850)年の時点での藩政の主導権は保守党に復していたと考えられるが、保守党には砲術を学ぶ適性を持った者が少なかったようで、砲術修業のため中津から長崎や鹿児島へ派遣されたのは、奥平壱岐、浜野覚蔵(定四郎の父)、服部五郎兵衛、そして福沢諭吉など、いずれも改革党の子弟で、野本門下生だった。

 『福翁自伝』には、兄三之助に勧められるままに長崎に赴いたように書いてある。 しかし、この遊学が藩の意向に沿ったものであったことは、一足先に長崎で砲術を学んでいた元家老奥平与兵衛の息子壱岐(当時は十学と名乗る)と宿舎を共にしたことと、その後の経緯からみてほぼ確実である。 主君と姓を同じくする奥平家は、本来の姓を中金(なかがね)といって、700石取の大身格であった。 父与兵衛はかつて進脩館で野本真城、福沢百助らと机を並べていた改革党の同志、というより事実上の指導者だった。 文政8(1825)年5月に家老に就任したが、どうやら財政上の失政があったらしく、2年後には未だ幼少だった壱岐に家督を譲って引退している。

 福沢の長崎遊学は西洋砲術修得の藩命によるものだと推定でき、藩士のうち砲術を学ぶ適任者を選任していた大橋六助など、野本真城門下生グループの推薦と後押しによるものだったらしい。 『福翁自伝』ではすっかり家老のバカ息子で悪者にされた奥平壱岐だが、彼も野本の弟子であり、その父奥平与兵衛の関与も大きかったのだろう。 中津藩内に、保守派と改革派、実学派と尊王派の争いがあり、それが福沢の長崎遊学から蘭学塾開塾まで複雑にからんでいるのだった。

 安政3(1856)年、福沢諭吉は大坂の適塾にいて腸チフスに罹り、リューマチを患い任期満了になった兄三之助と共に、5、6月ころ中津に帰る。 この年3月に還暦を迎えた野本真城が亡くなったのは、たまたま福沢兄弟が帰省していた7月3日のことだった。 諭吉は養父の中村術平を説得して、西洋砲術修業の願書を出し、大坂の適塾に戻るが、9月兄三之助の訃報が届き、中津に帰って福沢家を継ぐことになる。

 将軍家茂が朝廷の攘夷実施の求めに応じて京都に向かったのは文久3(1863)年3月13日、京都滞在中の将軍の警護を命じられた中津藩は、藩主奥平昌服(まさもと)と家老奥平壱岐以下総勢160名余りで江戸を出発した。 この京都で、次期藩主になる嫡養子(儀三郎、昌邁(まさゆき))を宇和島伊達家から迎える件について反対する勢力からの建白があって、奥平壱岐は家老を免職になっている。

「ワンダーベルト」と軍事技術2021/08/09 07:13

 平山洋さんがYouTube授業で話したことで、「野本真城」の他に触れておきたいもう一つは、「ワンダーベルト」についてである。 『福翁自伝』の「大阪修業」に、父百助の蔵書を豊後の臼杵藩の儒者をしていた白石常人(照山)に相談して臼杵藩に買い取ってもらったのと同じ頃、奥平壱岐の持っていた『ペル築城書』を借り出して、筆写してしまい、その話を緒方洪庵にすると、学費の代りに訳させるということで、適塾の内塾生(寄宿生)にしてくれたとある。

 「緒方の塾風」安政4(1857)年3月である。 福岡藩蔵屋敷に行った洪庵が、黒田侯から「ワンダーベルト」という最新の英書をオランダ語に翻訳した物理書を借りてきた。 ファラデーの電気説を土台にして電池の製造法が出ている。 塾生が集まり、2日しか猶予がないので、最後のエレキテルの部分だけでも写し取ろうとなり、昼夜の別なく作業した。 東田全義(まさよし)さんが『福澤手帖』113号に書いた「ワンダーベルトと云ふ原書」で、ワンダーベルトは書名でなく、作者名Pieter van der Burg(1808~89)に由来していることが判明した。 書名は、NATUURKUNDEと印字されている。

 『福翁自伝』「工芸技術に熱心」で緒方の塾生たちは、塩酸、ヨード、塩酸アンモニア、硫酸の四つの製造の実験をしている。 この内、ヨードは殺菌薬ヨードチンキを作るためだから、蘭方医学塾の塾生としては当然だが、あとの三つは、実は「ワンダーベルト」の中にガルバニ電池の製造法として掲載されている実験なのである。 平山洋さんは、1850年代の当時、ガルバニ電池を使った電気製品として実用化されていたのは、ただ一つ電信機だけだという。 福岡藩主黒田長溥が80両もの大金を払ってまで欲しかった情報は、この電信機の製造法についてだったろうとする。 福岡藩と佐賀藩鍋島家は、長崎警護番を勤めていて、伝令や狼煙(のろし)より早く情報を伝える通信手段が必要だった。 電信機は軍事上重要で、通信によって見えない目標を大砲で撃つ、間接砲撃もできるようになった。 平山さんは、適塾塾生の実験は、福岡藩主黒田長溥の依頼による、最新技術器械の国産化実験だったと推察している。 適塾の科学グループは、大村益次郎、大鳥圭介、橋本左内を生み、大阪大学の工学部へと発展した(蘭方医は医学部)。

平山洋さんは『福澤諭吉』で、福沢は要請を受けて砲術家、軍事専門家として育ち、福沢塾も主に西洋の軍事技術を研究する場であったのが、三度の洋行を経て英国のパブリックスクールを範とした教養教育の場に変質した、としている。

小川糸さんの『ライオンのおやつ』2021/08/10 06:58

 BSプレミアムのドラマ『ライオンのおやつ』「人生が愛しくなる美しい島のホスピスの物語」(全8話)を6話まで見た。 小川糸さんの原作、本田隆明脚本、岡田恵和脚本監修だ。 家内の読んだ原作本があったので、それも読んだ。 小川糸さんの本は、2010年に『食堂かたつむり』の映画を観て読み、2016年には『ツバキ文具店』を読んだが、これはNHKが多部未華子でドラマにしたのは見なかった。 それについては、当日記にいろいろ書いていた。 あらためて読むと、あれこれを思い出す。

「昭和11年創業、酒学校」が発端<小人閑居日記 2010.2.12.>
「友達の友達は女優さん」<小人閑居日記 2010.2.13.>
映画『食堂かたつむり』<小人閑居日記 2010.2.14.>
小川糸著『食堂かたつむり』を読む<小人閑居日記 2010.2.15.>
「龍天門」の平日ランチと「キャベツ卵」<小人閑居日記 2010.2.16.>
鎌倉『ツバキ文具店』実は代々の代書屋<小人閑居日記 2016.6.13.>
代書屋の手紙の工夫が織りなす物語<小人閑居日記 2016.6.14.>
鎌倉案内としての『ツバキ文具店』<小人閑居日記 2016.6.15.>

そこで『ライオンのおやつ』、33歳(ドラマ)の海野雫(うみの しずく)は、クリスマスの日に船で島に到着して、代表のマドンナに迎えられ、ホスピス「ライオンの家」に入った。 5年前に発症した癌はステージIV、担当医は余命を梅が咲き、桜が花開く前と見立てた。 病気が見つかる少し前、最後に会った、父(実は叔父)には、アパートを解約したことも、「ライオンの家」に入ることも知らせていなかった。

レモン畑(原作)の向こうに、どこまでも海が広がっている、高級ホテルのような設備のすばらしい部屋だった。 紹介された食事担当は「かの姉妹」、笑わないのか、あちら様と一字違いなのに、うちらおばあさんやし、おっぱいも、ぺっしゃんこやしなぁ、と。 狩野、姉シマ、妹舞で「かの姉妹」、姉は主にご飯、妹はおやつの主導権を握っている。

おやつの間、今風に言えばサロン・ド・テで、毎日曜日午後3時から「おやつの時間」がある。 ゲスト(入院している患者)がもう一度食べたい思い出のおやつを、ボックスにリクエストしておくと、厳正な抽選、くじ引きで決められる。 お茶会当日に、マドンナがそれを読み上げるまで、だれの希望かは秘密にされる。 おやつは心の栄養、人生のご褒美だ。