憲法改正試案を三度、首相靖国参拝は批判2021/09/01 06:57

 渡辺恒雄さんは、40年以上読売新聞の主筆(社論の最高責任者)として、毎週、社論会議の議長を務め、編集方針を提示し、行政改革、安全保障、経済、社会保障などの提言報道に力を入れている。 客観的事実は一つだから報道しなきゃあならん、しかし「どうしたらいいか」ということになると、新聞は自分の主張、考え方を持たないといかん、と言う。 1000万部近い影響力は大きい。 間違った方向へ行かないように、ちゃんとした思想、哲学、世界観を持つように、お願いする努力はしなけりゃあいけない。 力があるんだから。

 憲法改正試案を三度、紙面で発表した。 1994(平成6)年11月3日の見出しには、「自衛力保持を明記」。 進駐軍にゴマすって作った憲法だから、前文を見ても日本語になっていない、変えたほうがいいという信念で、いいところはいい、手ぬるい、「本当のリベラリズム」の憲法になっていない、いずれ直さなきゃいかん。 主筆を、天職だと思っている。

2001(平成13)年4月登場、「自民党をぶっ壊す」「聖域なき構造改革」「私の内閣に反対する勢力はすべて抵抗勢力」というワンフレーズ・ポリティクスの小泉純一郎首相。 渡辺恒雄さんは、その靖国神社参拝を論説で批判した。 小泉の言う「心の問題」だけではすまない、あの神社は戦争礼讃に利用されている。 A級戦犯まで合祀されており、人々に間違った歴史観を持たせる恐れがある。 渡辺さんは朝日の呼びかけに応じて、朝日新聞編集主幹の若宮啓文と、朝日の雑誌『論座』で対談した。 当時の『論座』編集長、元・朝日新聞政治部長の薬師寺克行は、読売と朝日が同じような問題意識を持っているという建設的動機だった、と証言する。 当時の論壇状況は、右派的人たちは戦争を美化し、歴史を美化し、東京裁判を否定し、自虐的な歴史観を否定するというグループがあった。 二人は、戦争責任の所在をはっきりさせ、加害者である軍や政府首脳の責任を問うべきだとした。 ファクトと論理を織り交ぜた、冷静でイデオロギッシュでなく感情的でもない表現で話し合った。 渡辺の「蓄積努力型」、若宮の「感覚型」、二つのジャーナリストの姿だった。 他のメディアは、「朝読共同宣言」と報じた。

薬師寺克行は、渡辺を「右翼でもなく、民族主義者でもないし、リアリスト。ジャーナリストらしいリアリスト。飽くなき知に対する好奇心、「知的肉食獣」とでもいうか」と。 現実を見て、現実がどうなっているかを見て、問題を把握し、さらに人間の歴史を加味して、考えていくタイプの人。 イデオロギー先行の人じゃない。 戦争観がリベラル、政治思想が保守、これが全然矛盾しないと思う。 保守は幅広い、リアリズムで現実を見て、議論する、きれい事で済まさない、と。

「大連立構想」を仕掛け、一歩手前まで2021/09/02 07:00

 小泉純一郎政権は、2006(平成18)年9月まで5年間続いた。 その反作用で政治は流動化、2007(平成19)年の参院選で、自民党(安倍晋三首相)は大敗、ねじれ現象が起きた。 安倍辞任で、政権交代がささやかれる。 渡辺恒雄さんは、自民党福田康夫首相と民主党小沢一郎との「大連立」を構想、社説でも主張した。 ある人(初めて明かすが、大蔵省で十年に一人の大物次官と言われた斎藤次郎。小沢の信頼を受けていた)を介して、小沢一郎と接触した。 当時、断崖絶壁内閣と言われた福田康夫はインタビューに答え、渡辺さんからアドバイスがあって、こちらも森喜朗に仲介を頼み、パレスホテルの地下で、森が小沢一郎に会って粗ごなしの話をした。 小沢は、民主党の議員はほとんど政府、行政官庁の仕事をしたことがない、総選挙を心配する者もいるが、ドイツでは連立でやっている、と。 2007(平成19)年11月の党首会談が実現、日本の政治を進めるために、閣僚も自民何人、民主何人と「阿吽の呼吸」で話をした。 「大連立」は順調に進むと思われたが、福田は小沢が党内をまとめきれるのかと、チラッと思ったという。 小沢は、一番ポイントになったのは、国連を中心とした安保政策だった、と。 渡辺さんは、「日本の政局を何とか打開しなければ」という二人の政治家らしい、政治家のいいところが出た、と話した。

 小沢は一旦民主党に帰って役員会、みんな反対、反対。 小沢は、その時は断念した、民主党に入って間もない頃だったので、と。

 福田康夫は、成功していれば、まったく違う政治風景になっただろう、低成長の中で質の高い生活をいかに送るか、考えなければならない時代で、転換点にしたい思いがあった、小沢も惜しい機会を逸した、と。

 御厨貴東大名誉教授は、渡辺さんが最後まで仕切れば、「大連立」は成功しただろう。 しかし、渡辺さんが仲介していることは、すでにメディアに知られていて、一種の「有名税」で、直接手を入れることができない。

 「フィクサー」と言われるが、と聞く大越健介に、渡辺さんは、目の前で馬鹿な事をやっていると、いろいろ忠告したくなる、ちょっと抜けてますよ、こういう考え方もある、こういう人に会ったほうがいい、とか。 権力との距離感は難しい、書ける材料が入って来る、プラスにはなるのだが、と。

 「大連立劇」、渡辺の動きが表に現れた、最大で最後のものになった、と、加賀美幸子アナの語り。

「メディアは戦争の愚かさを伝え続けてほしい」2021/09/03 07:07

 現代の政治状況をどう思うかと聞かれた渡辺恒雄さんは、歴代の総理大臣の印象を語った。

 池田勇人…話し方が易しくわかりやすかった、近頃の政治家は、易しいことを難しく言えばいいという気がするぐらい、言うことが晦渋だ。 政治は、白を黒とうまく言うことも、少しは必要なんだな。

 田中角栄…本を読んでよく勉強していた、いろいろ知恵もあった、ちょっと余計な知恵もあって、お金の方で尻尾を出したりして、困ったけれど。 話は面白かったし、勉強になった、話が即物的で。

 中曽根康弘…参謀次第だよ。 政治家は、いい参謀がしっかりつかなきゃだめ、大平正芳さんのブレーン、みんな取っちゃった。 土光敏夫、瀬島龍三、大変な政策家を。 そういう人が今いない、政策が貧困になる。

 ここで、平成期の政治が「ポピュリズム」に傾斜したのでは、と警鐘を鳴らした。 小泉純一郎…郵政民営化なんて、後を考えずに「世間を驚かしゃあいい」という程度、どうなるか考えない「ワンフレーズ・ポリティクス」。

 <メディアの役割> インターネットの登場によってメディアの状況が変わる中で、新聞の役割は変わらない、どう適応するかで、うまく適応すれば生き残れる。 変わることも必要だ。 記者は、政治家を馬鹿にするくらいじゃないと駄目。 やり手の記者は、お互いに付き合っていて、ギブアンドテイクで非常に役立つ。 僕はいい政治家の友達、いい新聞記者の友達、両方いたからね、情報は倍増になる。 持ちつ持たれつの関係になると、政治記者は深みが出る。

 次のメディアを担う人に、戦争の愚かさを伝え続けてほしい。 戦争、暴力によって国際関係を解決するんじゃなくて、他の手段でやらなきゃいかん。 あの戦争も、新聞が一致して反対すれば、ある程度は防げたと思う。 ところが、一致して推進する方向へ行っちゃった。 当時の新聞編集者も情けないと思うね。 何であんなものに付和雷同して、万歳万歳を言ったのかと思うね。 社論をまとめるに当って、正しいことじゃないとしょうがない、あの戦争に反対することだけは、絶対に譲れない。

 大越健介さんはインタビューの最後に、渡辺恒雄さん像を、こうまとめた。 哲学を愛する理想主義者にして、超リアリスト。 圧倒的な教養人でありながら、どこかユーモラスな庶民性。 弱肉強食の権力の信奉者にして、争いを憎む平和主義者。 それらすべてが、一つの人格の中に矛盾なく同居していた、唯一無二の言論人。 渡辺恒雄とは、そういう人だった。

杉山龍丸さんの、もう「一つの悲しみ」2021/09/04 07:09

 8月18日の朝日新聞「天声人語」に、日本陸軍の軍人だった杉山龍丸(たつまる)さんが、戦後、復員の事務に就いていて、留守家族に夫や息子の戦死を伝える苦しい仕事をしていた話があった。 ある日小学2年の女の子がやってきて、病気の祖父母に代わり、父親のことを聞きたいという。 フィリピンでの戦死を伝えると、女の子は涙をこらえながら、こう言った。 戦死した状況を紙に書いてほしい。 祖父からそういわれてきたのだと。

 「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いてはいけないって」「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、しんだの。だから、あたしが、しっかりしなくては、ならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって」

 私も感動して読んだけれど、しっかりした子なのだろうが、「小学2年」というのはちょっと幼すぎる、とチラッと思った。

 昨年11月の「等々力短信」1137号「心の中で「ブラボー!」」の、天満敦子・岡田博美デュオ・リサイタルにお招き頂いた藤原一枝先生から、メールがあり、「天声人語」が取り上げた杉山龍丸さんの「二つの悲しみ」の全文を送って下さった。 光村図書刊『中学三年・国語』という教科書に載っているのだという。

 少女の話とは別の、もう「一つの悲しみ」は、こういうものだった。 ずんぐり太った、立派な服装の紳士が、隣のニューギニア派遣担当の同僚のところに来た。 息子の名前を言ってたずねる。 帳簿をめくって同僚は、「あなたの息子さんは、ニューギニアのホーランジャで戦死されておられます。」と言った。 その人は、瞬間、目をかっと開き、口をぴくっと震わして、黙って立っていたが、くるっと向きを変えて帰っていかれた。 同僚はしばらくしてパタンと帳簿を閉じ、頭を抱えた。 わたしは黙って便所に立った。 階段のところに来たとき、さっきの人が階段の曲がり角の踊り場の隅の暗がりに、白いパナマ帽を顔に当てて、壁板にもたれるように立っていた。 瞬間、わたしは気分が悪いのかと思い、声をかけようとして足を一段階段に下ろした。 そのとき、その人の肩がブルブル震え、足元にしたたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。

 その水滴は、パナマ帽から溢れ、滴り落ちていた。 肩の震えは、声を上げたいのを必死にこらえているものであった。 どれだけたったかわからないが、わたしはそっと自分の部屋に引き返した。

少女は、涙一滴落とさなかった2021/09/05 07:26

 次の日、杉山龍丸さんの机から顔だけ見えるくらいの少女がちょこんと立って、杉山さんの顔をまじまじと見つめていた。 「あたし小学三年生なの。お父ちゃんはフィリピンに行ったの。お父ちゃんの名は、○○○○なの。家にはおじいちゃんとおばあちゃんがいるけど、食べ物が悪いので病気して、寝ているの。それで、それで、あたしに、この手紙をもってお父ちゃんのことを聞いておいでというので、あたし来たの。」 顔中から汗をひたたらせて、ひと息にこれだけ言うと、大きく肩で息をした。

 小さい手が差し出した葉書、復員局の通知書によると、住所は東京都の中野、帳簿の氏名のところを見ると、フィリピン諸島の一つ、ルソン島のバギオで戦死になっていた。 「あなたのお父さんは戦死しておられるのです。」と言って、声が続かなくなった。 瞬間、少女は、いっぱいに開いた目をさらにパッと開き、そしてワッとべそをかきそうになった。 涙が目にいっぱいにあふれそうになるのを必死にこらえていた。 それを見ているうちに、わたしの目に涙があふれて、頬を伝わり始めた。 わたしのほうは声を上げて泣きたくなった。

 しかし少女は、「あたし、おじいちゃまから言われて来たの。お父ちゃまが戦死していたら、係のおじちゃまに、お父ちゃまの戦死したところと、戦死した情況、情況ですね、それを、書いてもらっておいでと、言われたの。」 わたしは黙ってうなずいて、紙を出して書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にぽたぽた涙が落ちて書けなくなった。

 少女が不思議そうに、わたしの顔を見つめていたのに困った。 やっと書き終わって封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手でポケットに大切にしまい込んで、腕でおさえてうなだれた。 涙一滴落とさず、一声も声を上げなかった。

 註に、こうあった。 杉山龍丸(すぎやま たつまる・1919年(大正8年)~1987年(昭和62年))福岡県出身。祖父は政財界のフィクサーといわれた杉山茂丸、父は作家の夢野久作である。陸軍軍人(終戦時、陸軍少佐)、農業技術者。私財を投じてインドの各地にあった砂漠地帯や土砂崩壊の地域を緑化し、「インドの緑の父」Green Fatherと呼ばれる。インド、パンジャブからパキスタンまでの国際道路のユーカリ並木とその周辺の耕地は杉山の功績であるとされている。 私は、これを読んで、以前見たテレビ番組を思い出した。