室生犀星『性に眼覚める頃』、犀川の水を汲んで点茶2021/09/10 07:09

 暇に飽かせて、NHK「らじる・らじる」の聴き逃し「朗読」で、室生犀星の作品集を『性に眼覚める頃』から聴き始めた(朗読は俳優の谷川俊)。 読んだことはなかった。  室生犀星は明治22(1889)年、金沢市裏千日町に、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とその女中ハルとの間に私生児として生まれた。 生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、7歳の時真乗の養嗣子室生照道となる。 実父はまもなく死去し、実母は行方不明になる。 明治35(1902)年義母の命令で長町高等小学校を3年で中退し、金沢地方裁判所に給仕として就職する。 裁判所の上司に河越風骨、赤倉錦風といった俳人がいて手ほどきを受け、文学書に親しみ始める。 『北國新聞』に投句したり(号、照文・てりふみ)、勤務先で回覧雑誌をつくる。 明治39(1906)年『文章世界』3月創刊号に小品の文章が初入選(号、室生殘花)、この年から筆名犀星を名乗り、明治40(1907)年『新聲』7月号に児玉花外の選で詩「さくら石斑魚(うぐい)に添へて」が掲載される。 明治41(1908)年、5月同郷の友人表(おもて)棹影、尾山篤二郎、田辺孝次らと「北辰詩社」を結成、初の小説「宗左衛門」が『新聲』8月号に掲載される。 明治42(1909)年、1月金石(犀川河口右岸の港町)登記所に転任、2月尼寺に下宿。 北原白秋から強い影響を受け、「かもめ」「海浜独唱」を作詩。 4月表棹影病没。

 そこで『性に眼覚める頃』であるが、「私は七十に近い父と一しょに、寂しい寺領の奥の院で自由に暮した。そのとき、もう私は十七になっていた。」と始まる。 父は茶が好きで、私はよく父と小さい茶の炉を囲んだ。 夏の暑い日中でも、父と茶の炉に坐っていると、茶釜の澄んだ奥深い謹しみ深い鳴りようを、かえって涼しく爽やかに感じるのであった。

 父は、若いころに妻をうしなってから、一人の下男と音のない寂しい日をくらしていた。 茶を立てる日になると、井戸水はきめが荒くていけないというので、朝など、 「お前御苦労だがゴミのないのを一杯汲んで来ておくれ。」  私がうるさく思いはせぬかと気をかねるようにして、いつも裏の犀川の水を汲みにやらせた。

 庭から瀬に出られる石段があり、手桶をもって磧(かわら)へ出てゆく。 犀川の上流は、大日山という白山の峯つづきで、水は四季ともに澄み透って、瀬にはことに美しい音があるといわれていた。 私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった。

 この朝ごとの時刻には向河岸では、酒屋の小者の水汲みが初まっていた。 この川の水から造られた「菊水」という美しい味をたたえた上品なうまい酒がとれた。