金沢の、あの町この町2021/09/11 07:15

 昨2020年福沢史蹟見学会は金沢へ行く計画と聞いていて、楽しみにしていたのだが、コロナ禍で中止になってしまった。 福沢諭吉協会には、いつも土曜セミナーや史蹟見学会に長駆、金沢から参加される大窪孝司さんという熱心な会員がいて、準備段階から様子はもれ承っていたのだったが…。 金沢へは、学生時代に行ったことがあったが、兼六園の一部しか印象に残っていなかった。

 室生犀星の『性に眼覚める頃』の朗読を聴いていると、金沢の町へ行ってみたくなる。 昨日見た、犀川の水を汲んで茶を点てる犀川の畔、雨宝院というお寺はどんなたたずまいを残しているのか。 二本の大きな栂(つが)の樹を左右にして、本堂を覆った欅や楓の大樹が広がって、枝は犀川の方へほとんど水面とすれすれに茂りこんだままなのだろうか。

 十七歳で詩を『新聲』に投稿して、掲載されると天にも昇る気持になり、それを読んだ同い年で短歌を詠む街の真ん中の西町に住む表棹影(おもて とうえい)と友達になる。 表はたえず女の子に手紙を書き、返事をもらっていて、女の子と親しくなるのが上手だった。 二人で一緒に劇場に行き、二階から女学生らしい色白の桃割が母親と来ているのを見ていた。 表が幕間に手紙を渡しに行き、女の子がそちらへ立ったのを見て、私は頭にかっと血が上ったように、呼吸さえ窒(つま)るような昂奮を感じた。

 お寺は廓に近い界隈だけに、夕方など、白い襟首をした舞妓や芸者がお参りに来た。 桜紙を十字にむすんだ縁結びを、金毘羅さんの格子に括りつけて行ったりした。 その縁結びは、いつも鼠啼きをして、ちょいと口で濡らしてする習慣になっているらしく、私はその桜紙に口紅の烈しい匂いをよく嗅ぎ分けることができた。 そのうすあまい匂いは私のどうすることもできない、樹木にでも縋(から)みつきたい若い情熱をそそり立て、悩ましい空想を駆り立ててくるのであった。

 お寺に、賽銭泥棒に来る娘に気づいた。 せいの高い堅肥りのかなりの器量で、品行が悪いという評判だったが、瑞瑞しい若さ美しさに富んでいた。 何度も目撃したが、それを記帳所の執事や年寄たちには話さなかった。 ある日、いつも来る時分の前に、賽銭箱に手紙を入れた。 「あなたの毎日せられたことは、お寺にみんな知られているから、もう此処へ来てはいけません。」私は、彼女がすぐ裏の町、加賀藩の零落(おちぶ)れた士族の多く住むお留守組町から来ることを知っていた。 寺に来なくなったその家に行き、玄関の内に紅い鼻緒の立った籐表(とうおもて)の女雪駄を見て、いつも寺に履いて来るものだと思った。 何度か行くうちに、悪戯心が萌(きざ)して、庭に忍び込んだことを彼女に知らしめるために、その雪駄の片方を盗んだらと思うようになった。 やがて紅い緒の雪駄が、もはや雪駄以上の別の値のあるもののように、べつな彼女の美しい肢体の一部分を切り離して、そこに据えつけてあるような、深い悩ましい魅力をもって釘付けにされてしまう。 素足になって玄関に這入り込むと、紅い雪駄の片足を懐に入れた。 殆んど眼まいを感じながら一散にかけ出した。

友人の表は、公園の藤棚のところにある掛茶屋の娘、お玉さんと深い仲になっていた。 表と二人で散歩の途中に寄ると、当時いた露西亜人捕虜にもらったというロシア更紗を見せてくれた。 一面の真紅(まっか)な地に、白の水玉が染め抜かれてあった。 お玉さんは晩に、西町の表の家に行くと、下町娘らしく口笛を吹いて、呼び出すらしい。 だが、やがて表が胸を病んで、臥(ね)ついてしまう。 それをお玉さんに知らせに行くと、「いちど逢わして下さいまし」と思い詰めたように言った。 彼女の顔から発散する温かみが遠い炭火にあたるように、私の頬につたわり、烈しい髪の匂いがした。 表は、ついに亡くなる。 そして、お玉さんも、臥ついてしまう。

夕方寺を抜け出し、ある神社の裏手から廓町へ行く。 廓町の道路には霰がつもって、上品な絹行灯の燈火(ともしび)があちこちにならんで、べに塗り格子の家がつづいている。 人に見られないように、一軒の大きな家に入った。 おかみは、「あなたのようなお若い方はおことわりしているんですが、おうちをよく存じ上げているものですから……」 先日の、なりの高い女を招んだ。 「金毘羅さんの坊ちゃんでしたわね。いつかお目にかかった方だと思っていたんですよ。」 彼女は、小さい妹芸者を振り返って笑った。

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