金沢城の石垣、加賀百万石の外交戦略2021/09/12 07:25

 先日『ブラタモリ』で「日本の石垣スペシャル」というのを見た。 金沢城に行った時、石垣を見るだけで、3時間もかけて録画したのに、放送は10分間しかなかったから、改めて「石垣スペシャル」となった。 先日小沢征悦さんと結婚した桑子真帆アナウンサーが、当時のアシスタントだった。 その『ブラタモリ』は、全国版初期の#3、2015年4月25日放送の「金沢」「加賀百万石はどう守られた!?」だった。 前田家が金沢を、徳川の攻撃に備えて、どのようにつくったかという話であったが、前に書いたことがあったので、明日から触れてみたい。

 「石垣スペシャル」、初代前田利家は、穴太(あのう)衆を使った「自然石の野面(のづら)積み」「割石乱積み」、割石には石を割った矢穴が残っていた。 三代利常(としつね)、城壁の積み方も進歩して、石垣隅の算木積み(長い石の長辺と短辺を互い違いに積む)、石に刻印、カラフルな「割石の布積み(横方向に一段ずつ揃える)」。 五代綱紀(つなのり)、「正方形の切石の布積み」、「色紙短冊積み」、芸術を愛し、日本全国の工芸を蒐集し比較考証した「百工比照」のコレクションがある、江戸城天守跡に残る石垣は遠近法(下に大石、上へ次第に小さな石)を使って積んでいる。

加賀の前田家については、磯田道史さんの『殿様の通信簿』(朝日新聞社)を読んで、豊臣から徳川へという時代の流れの中をどのように泳ぎ、生き延びたかについて、この日記に書いたことがあった。 2014年10月20日から25日までで、「加賀百万石の外交戦略」「関ヶ原の戦いと前田利長の動き」「三代・前田利常の生い立ち」「もう一人の「猿」の出世、徳川・豊臣・前田」「もう一つの砂時計、前田利長の寿命」「徳川幕府の防衛ラインと譜代大名配置」である。

 「守りに入るな。徳川とは対決せよ。中央に出て、あわよくば、天下に号令せよ」というのが、初代前田利家の一貫した外交方針だった。 二代利長には「おれが死んでも三年は金沢に帰るな。大坂城にいて、秀頼公をお守りしろ」と厳命していた。

 だが、利長はさっさと金沢に帰って城に引き籠ってしまう。 利長には、のちに「三州割拠」と呼ばれる、独特の外交戦略があった。 第一に、中央での政権争いには加わらない。 第二に、穴熊になったつもりで加賀・越中・能登の三か国に立て籠もり、ひたすら時を待つ。 そのうち、中央での政権争いで、覇者たちが疲れるから、そこに出て行って漁夫の利を占める。 一種の持久戦法だ。 結局、これが、明治維新にいたるまで、前田家の伝統的な外交方針になる。

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