『或る少女の死まで』、谷中三崎町の離れで2021/09/16 06:58

『或る少女の死まで』では、室生という主人公は、S酒場での喧嘩事件のあと、谷中もやや根津の通りに近い高台の、とある坂の上にある小さな離れに引っ越す。 大きな屋敷の楓ばかりの見事な垣がつづいて、静かな道は曲がって谷中の墓地や上野の方へ続いていた。 略歴にある谷中三崎(さんさき)町だろう。 寛永寺の鐘が聞こえた。 その家には、ほかに老夫婦と、十ばかりの女の子と小さな弟とその母との、二つの家族が住んでいた。 ふじ子という女の子と親しくなると、九つで、弟は敬宗(けいそう)六つだと、言った。

「おじさんは毎日何をしていらっしゃるの。何を書いていらっしゃるの。」「おじさんの書いているものは、ふじ子さんがもっと大きくなると、ひとりでに解ってくるようになるの。」「それまでどうしても解らないの?」

父が鹿児島の市街からやや離れた家にいて、そこには大きなボンタンが生る。 鹿児島に帰ったら、ボンタンを送るというので、ふじ子をボンタン、ボンタンと呼んで可愛がり、一緒に動物園へ行ったりした。

喧嘩の件は、二十円で示談にし、芝の区裁判所で検事から説諭されて終わった。 友人の画家Sがやってきて、金に困っているのを見て、着ていた羽織を質屋に持って行って金をくれた。 そして、「ともかく偉くなるまでは、楽しみだ。いまの苦しみにも、酬(むく)いられるときがあるに違いないのだ」と、励ます。 「もう間もなく世間に出られるような気がするんだ。苦しんだだけでも出ずにいられない気がするからな。」

ふじ子たちが鹿児島に帰ることになり、室生とふじ子は一年後に根津へ電車が通るようになるという話をした。 一方、室生は、明治44年10月3日に緑深い国へ帰郷することになる。 手持ちの『日本鉄道旅行地図帳』東京(新潮社)を見たら、上野公園から駒込道坂町までの市電の開通は、大正6(1917)年7月27日になっていた。 六年後ということになる。

明治44年12月、父なる山元椿荘氏から手紙が来た。 ふじ子が腸に病を得て亡くなった。 「髪の長いおじさん」と、言い言いしていた、と。 涙があふれ、私のためには小さな救い主であった彼女の魂に合掌した。

     悼詩
ボンタン実る樹のしたにねむるべし
ボンタン思へば涙は流る
ボンタン遠い鹿児島で死にました
ボンタン九つ
ひとみは真珠
ボンタン万人に可愛がられ
いろはにほへ らりるれろ
ああ らりるれろ
可愛いその手も遠いところへ
天のははびとたづね行かれた
あなたのおぢさん
あなたたずねて すずめのお宿
ふぢこ来ませんか
ふぢこ居りませんか

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