「わっしょいベースボール」の驕りか2021/10/01 06:57

 巨人ジャイアンツは、8月17日18日の両日、松山の坊っちゃんスタジアムで、ヤクルトとの二連戦があった。 17日、先発は高橋優貴と高橋圭二の両高橋、巨人は丸の2ラン、8回岡本のソロで3点取ったものの、ヤクルトは6回に山田のソロや押出、青木、村上の各2点タイムリーで一挙9点、結局3対13、東京音頭のお祭りとなった。 敗投手今村、勝投手今野。 その少し前から聞くようになった原辰徳監督の「わっしょいベースボール」に、ちょっと驕れる者久しからずを感じて、どうも気に入らなかった私は、twitterに「わっしょいベースボールが、踊り踊る野球に負けた」とつぶやいた。 18日は、直江と石川の先発、1対2の7回、中島2点タイムリーが出て3対2でなんとか巨人の逆転勝、勝投手畠、セイブ・ビエイラ、敗投手石山。

 巨人は、8月31日から9月1日にも、ヤクルト戦があった。 8月31日は岐阜長良川球場、先発はメルセデスと小川、岐阜出身の吉川尚輝が4号ソロ、満塁に三塁打と大活躍、10対8。 9月1日は京セラドーム大阪で、先発は菅野と高橋圭二、菅野は8回1安打、高橋も7回4安打の好投だったが、3回に出た丸16号2ランで、2対0。 セイブのビエイラは、32試合連続無失点だった。 9月2日も京セラ、先発は山口とライアン小川、初回満塁に村上セカンドゴロで先制、2回岡本33号ソロで1対1のまま9回まで、川端のタイムリーでビエイラの記録が終わり、その裏、一死二塁から若林のタイムリー二塁打で、2対2で引き分けた。 このあたりが、一つの転機だったのだろうか。

 9月9日、私はtwitterに「ワッ!ショボイ・ベースボール 阪神に連敗、6-0から引分、DeNAに連敗 …一巨人ファン」と、つぶやいたのであった。

巨人ジャイアンツの9月失速2021/10/02 07:08

 9月1日のヤクルト戦を終ったところで、巨人ジャイアンツは1位(52勝、37敗、13引分)だった。 2位阪神(56勝、42敗、3引分)と0・5ゲーム、3位ヤクルト(47勝、37敗、12引分)とは2・5ゲーム差だった。 ところが、その後の巨人は全く冴えなかった。 阪神とは、1勝4敗2引分、ヤクルトとの1敗1引分、広島には3勝1敗だったものの、DeNAには1勝3敗1引分、中日には5敗3引分、計4勝15敗4引分(貯金マイナス11)だった。

 その間、ヤクルトは13勝7敗4引分(貯金6)、阪神も9勝9敗4引分。 9月30日現在、1位はヤクルト(60勝、44敗、16引分)で、2位阪神(65勝、51敗、7引分)と1ゲーム差、3位の巨人(57勝、51敗、17引分)とは5ゲーム差となった。 阪神に引分の後、連敗した9月26日には、自力優勝の可能性が消えてしまった。

 巨人ジャイアンツの9月失速を考える時、「わっしょいベースボール」の驕りのほかにも、いろいろ原因があったように思われる。 まず先発投手陣の不振、戸郷、高橋優貴、メルセデス各5回、菅野、山口各4回の23回中、勝ったのは菅野2勝、戸郷1勝(戸郷先発でデラロサの1勝)、高橋1勝だけ、負けたのは山口4敗、高橋3敗、菅野2敗、メルセデス2敗、戸郷1敗、ビエイラ1敗(高橋先発)、中川1敗(戸郷先発)、引分はメルセデス3回、戸郷1回だった。 32試合連続無失点で記録が止まってからのビエイラの不調もあったけれど、セーブ局面になる試合も少なかったから、さして影響がなかったかも知れない。

 打撃陣では丸の不調が大きかったが、私がチームに心理的な原因として大きく影響したと思うのは、中田翔選手の移籍と、ハインマンの加入である。 中田翔は、前日に日本ハムから無償トレードで移籍し、出場停止処分も解除され、8月21日にDeNA戦に代打で出場四球、翌日は5番一塁手で先発し、今永投手から初安打となる2点本塁打を放った。 しかし、その後はヒットが出ず、打率は1割台と低迷し、9月11日登録抹消され、二軍では打って、21日には一軍に戻った。  中田が登録抹消された9月11日、ハインマンが出場選手登録された。 大リーグで活躍して28歳と若いが、まだ芳しい働きはしていない。

 中田翔とハインマンが出場すれば、当然、外野のポストを争っている若手や、ウィーラーや中島の出番が減る。 前半、大活躍してジャイアンツを盛り上げたウィーラーがベンチで浮かない顔をしているのを見るのは、悲しい。

「慶應義塾塾歌」の謎、歌詞に込められた意味2021/10/03 07:25

 友人がLINEで、福澤諭吉記念慶應義塾塾史展示館のミニレクチャーシリーズのYouTubeを送ってくれた。 山内慶太さん(看護医療学部教授・福澤研究センター所員)の「『塾歌』の歌詞に込められた意味とは?」である。 「慶應義塾塾歌」、富田正文先生の作詞、信時潔さんの作曲、私の生まれた昭和16(1941)年の1月10日の福澤先生誕生記念会で発表されたのだそうだ。 この「塾歌」、学生時代の行事や神宮球場の応援席で、近年は1月10日の福澤先生誕生記念会で歌ってきた。 いつも慶應義塾のブルー・レッド・ブルーの三色旗を見ながら歌っていたので、一番の「見よ、風に鳴るわが旗を」の「旗」は、てっきりブルー・レッド・ブルーの三色旗だと思い込んでいた。 それが三色旗ではなかったのだ。 何と15歳から福澤先生の生涯にも匹敵する65年にもなるというのに、山内慶太さんのレクチャーを見なければ、知らずに死ぬところだった。 太平洋戦争に向かう昭和15(1940)年の作詞だが、「旗」は「日の丸」でもないと言う。

 慶應義塾塾史展示館の開館記念、第一回企画展は「慶応四年五月十五日 福澤諭吉、ウェーランド経済書講述の日」である(10月9日まで)。 山内慶太さんの「塾歌の謎」は、それに関連するミニレクチャーの一つだった。 富田正文先生は、一番の歌詞を『福翁自伝』「王政維新」の小見出し「上野の戦争」「日本国中ただ慶應義塾のみ」から書いたという。 オランダはナポレオンの欧州兵乱で本国はもとよりインドまで取られて、国旗をあげる場所は世界中で長崎の出島だけになった。 慶應義塾は世の中にいかなる騒動や変乱があっても、日本の洋学のためにはオランダの出島と同様、一日も休業したことがない、洋学の命脈を絶やしたことがないぞよ、この塾のあらんかぎり大日本は世界の文明国だ、と。 「見よ、風に鳴るわが旗を」の「旗」は、この慶應義塾の洋学の旗だったのである。

独り文明の炬火を点じて方向を示し前進する2021/10/04 06:59

 山内慶太さんの「『塾歌』の歌詞に込められた意味とは?」の次は、富田正文先生の二番の歌詞、「わが手に執(と)れる炬火(かがりび)は 叡知の光あきらかに ゆくて正しく照らすなり」の「炬火」についてである。

 これは「慶應義塾の目的」として知られる明治29(1896)年11月1日に芝公園内の紅葉館で開かれた慶應義塾故老生懐旧会で行なわれた福沢先生の演説にある。 よく引かれる演説の最後は、「慶應義塾は単に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず」、「我日本国中に於ける気品の源泉、智徳の模範」となることを目指し、「居家、処世、立国の本旨を明(あきらか)」にし、それを口にするだけでなく「躬行実践」して、「以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」と結ばれている。

 その演説の初めの方に、こうある。 「今を去ること三十年」「芝新銭座に」「一小塾舎を経営したる其時は、王政維新の戦争最中、天下復(ま)た文を語る者なし。況(い)わんや洋学に於いてをや。」 「当時我党の士は」「四面暗黒の世の中に独り文明の炬火を点じて方向を示し、百難を冒(おか)して唯前進するのみ。兵馬騒擾の前後に、旧政府の洋学校は無論、他の私塾家塾も疾(と)く既に廃して跡を留めず、新政府の学事も容易に興る可きに非ず、苟(いやしく)も洋学と云へば日本国中唯一處の慶應義塾、即ち東京の新銭座塾あるのみ。世人は之を目して孤立と云ふも、我は自負して独立と称し、在昔欧州にてナポレオンの大変乱に阿蘭(オランダ)国の滅亡したるとき、日本長崎の出島には其国旗を翻して一日も地に下したることなきゆゑ、阿蘭は日本の庇蔭に依り、建国以来曾(かつ)て国旗を断絶したることなしとて、今に至るまで蘭人の記憶に存すとの談あり。」とある。

 ここにも、出島のオランダの旗が出てくるわけで、「塾歌」二番の炬火(かがりび)は、この「炬火」だと山内慶太さんは指摘している。 これも、もちろん初耳だった。

佐伯啓思さんの『文明論之概略』引用2021/10/05 07:01

 9月25日の朝日新聞朝刊に、佐伯啓思さんの「異論のススメ スペシャル」「『国民主権』の危うさ」が出た。 見出しは、「世論に従う民主主義 その時の空気で左右 共通の将来像が必要」「知識人層は民意に同調せず動かせ」だった。 その書き出しと結論の部分に、福沢諭吉の『文明論之概略』が登場する。

 まず、書き出し。 「かつて福沢諭吉は「文明論之概略」のなかで次のようなことを書いていた。近年の日本政府は十分な成果をあげていない。政府の役人も行政府の中心人物もきわめて優秀なのに政府は成果をあげられない。その原因はどこにあるのか。その理由は、政府は「多勢」の「衆論」、つまり大衆世論に従うほかないからだ。ある政策がまずいとわかっていても世論に従うほかない。役人もすぐに衆論に追従してしまう。衆論がどのように形成されるのかはよくわからないが、衆論の向かうところ天下に敵なしであり、それは一国の政策を左右する力ももっている。だから、行政がうまくいかないのは、政府の役人の罪というより衆論の罪であり、まず衆論の非を正すことこそが天下の急務である、と。」

 「さらに次のようにもいっている。衆論の非を多少なりとも正すことのできるのは学者であるが、今日の学者はその本分を忘れて世間を走り回り、役人に利用されて目前の利害にばかり関心をよせ、品格を失っているものもいる。学者たるもの、目前の問題よりも、将来を見通せる大きな文明論にたって衆論の方向を改めさせるべきである。政府を批判するよりも、衆論の非を改める方が大事である。」

 佐伯啓思さんは、これを福沢が書いたのは1875(明治8)年だが、これを読むと150年ほどの年月を一気に飛び越してしまうような気にもなる、という。 ここでいう「学者」を広い意味での知識人層、つまりマスメディア、ジャーナリズム、評論家までを含めて理解すれば、今日の知識人層にも耳の痛い話であろう、とする。 福沢は、多数を恃(たの)んで政府に影響を与える大衆世論のもつ力とその危険を十分に察知していたわけである、というのだ。

 私は、これが『文明論之概略』のどこにあるのか、すぐには思い浮かばなかった。 まず「衆論」で『福澤諭吉事典』の索引を見たが、ない。 岩波新書の丸山眞男著『「文明論之概略」を読む』三冊本をひっくり返し、中巻で、文庫本で86~88頁、全集4巻の66~68頁らしいと推測した。(つづく)