今、将来を見渡せる大きな文明論が必要2021/10/06 07:00

 佐伯啓思さんは、「民主主義の根本原理は国民主権にあり」という疑い得ない命題に対して、ずっとある疑いの念を、この根本原理の解釈の仕方を持ってきた。 多くの国で採用されている議院内閣制は、すでに民主主義の原則から逸脱している。 首相の選出、政策の決定も、国民が選出した議員(議会)が決定的役割を担う、間接的方式だ。 この間接的方式は、もともと「民主主義の原則から逸脱」というより、「民主主義の暴走への歯止め」とみなされてきた。 国民世論は、安定した常識に支えられた「パブリック・オピニオン」であることはまれで、しばしば、その時々の情緒や社会の雰囲気(つまり「空気」)に左右される「マス・センティメント」へと流される。 この不安定な「世論」が国民の意志つまり「民意」とみなされ、その結果、民主主義は世論による政治ということになる。 議院内閣制とは、まさにこの意味での国民主権の民主主義を部分的に抑制しようとするものであった。

 「国民主権」とは、「国民」が絶対的権力を持つ政治である。 「国民」とは、実際には、多様な利益集団であり、様々な思想やイデオロギーの寄せ集めであり、知識も関心も生活もまったく違った人々の集合体に過ぎない。 「世論」を「国民の意志」とみなすことにしたとしても、問題は、それに絶対的権力を付与した点にある。

 今日、世論調査で、一つ一つの政策や内閣の妥当性を、1か月ごとに評価にかける。 ところがその世論は、しばしば「空気」によって左右される。 それが「主権」の表明だとすれば、主権とは何とも移りやすく危なっかしいものというほかない。

 「国民主権としての民主主義」のほかに、シンプルに「手続きとしての民主主義」という民主主義の理解がある。 議会主義や、代表者を選ぶ普通選挙、この手続き全体の妥当性が民主主義と呼ばれるものなのだとする。 議院内閣制は、民意や世論という「主権」からは距離をとるもので、そこに意味をみる。

 日本では、「民主主義」は、一つの理念であり理想を実現する運動であった。 目指すところは「民意の実現」にあり、政治がうまくいかないのは、政治が民意を無視しているからだ、ということになる。 いいかえれば、民意を実現しさえすれば政治はうまくゆく、という。 こういう理解がいつの間にか定着してしまった。

 佐伯啓思さんは、そうだとは思えない、と言う。 今日の政治の混迷は、将来へ向けた日本の方向がまったく見えないからだ。 将来像についてのある程度の共通了解が、国民の間にまったくない。 日本だけでなく、世界中で、グローバリズム、経済成長主義、覇権安定による国際秩序、経済と環境の両立、リベラルな正義などといった従来の価値観や方法が、もはや信頼を失っている。 だから、目先の、被害者や加害者が分かりやすい、しかも「民意」がすぐ反応しやすい論点へと政治は流されてゆく。

 結論で、佐伯啓思さんは、福沢諭吉に戻る。 「福沢流にいえば、将来を見渡せる大きな文明論が必要なのであり、それを行うのは学者、すなわちジャーナリズムも含めた知識人層の課題であろう。福沢は、この知識人層が大衆世論(社会の空気)に迎合していることを強く感じた。知識人層は、民意の動きを読み、同調するのではなく、逆にそれに抗しつつ、それを動かしてゆくものだ、というのである。150年前の福沢の主張は、今日ますます新たな意味を持っているのではなかろうか。」と。

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