園芸植物をヨーロッパに広めた「シーボルト商会」2021/10/11 07:01

 シーボルトは帰国後、彼の日本での収集品、膨大なさく葉(押し葉)標本、植物画のほとんどが保管されることになったオランダのライデンに住居を構えた。 これは第一に日本での調査の成果を出版するためであった。 植物標本は大部分が、ライデンの王立植物標本館(現在の国立植物学博物館ライデン大学分館)に収蔵されたが、一部の重複標本は後に、ボゴール植物園、ブリュッセル国立植物標本館、ケンブリッジ大学、パリの自然史博物館などに送られた。

 来日中に植物学と園芸が進んだ日本の状況を目の当たりにしたシーボルトは、日本の植物を導入してヨーロッパの園芸を豊かなものにする衝動に駆られていた。 園芸的価値のある野生植物が少なかったヨーロッパでは、そもそも露地植えできる園芸植物の数が限られていたためである。 シーボルトは日本の植物を園芸に導入するために、これをヨーロッパの環境に馴らす作業を、ライデン近くのライダードルフに設けた馴化植物園で開始する。 日本、それに中国の植物を導入するために、「園芸振興協会」を設立し、さらに営利目的の「シーボルト商会」を設立した。

 1844年にシーボルトが日本から持ち帰った植物を掲載した販売用の『有用植物リスト』ができ、球根や苗、種子が販売された。 このリストに載せた多くの日本産植物が単に魅力的であるだけでなく、多くがヨーロッパにも多少とも類似した類縁のある植物があったので、ヨーロッパの人々は大いに驚いた。 筆頭はカノコユリで、その球根は同じ重さの銀と取引きされたといわれている。 テッポウユリやスカシユリも、この時シーボルトによって初めてヨーロッパに紹介された。 また、このときに導入されたギボウシ類などの多数の日本植物が、後にヨーロッパでは欠かせない園芸植物になったのである。

真鍋淑郎さんと井上靖の詩<等々力短信 第1148号 2021(令和3).10.25.>2021/10/11 07:03

 「真鍋さん 言葉濁した日本への思い」「帰りたくない 調和の中で生きられないから」 10月9日の朝日新聞夕刊トップ、ノーベル物理学賞受賞真鍋淑郎さんの記事は、衝撃的だった。 1931(昭和6)年、愛媛県に村で唯一の、祖父と父が医者の家に生まれて90歳(私よりちょうど10歳上)。 1958(昭和33)年に東大大学院で博士号を取得後、アメリカに渡り、同年気象局研究員になる。 現在の海洋大気庁地理的流体動力研究所でキャリアを積み、1968(昭和43)年にプリンストン大学客員教授となった。

 受賞決定後の取材に、「非常に幸運で、コンピューターの購入代とかを米国の政府がやってくれた。うんっと、お金を使った」と述べた。 「日本へのメッセージ」を問われると顔をしかめ、「あれですねえ、あのう、うーん。非常に難しい問題でね」と言葉を濁した。 「(専門家から)政治に対するアドバイスのシステムが、日本は難しい問題がいっぱいあると思う」、「米国の科学アカデミーは、日本よりそういう意味でも、はるかにいい。だから、まあ、そういうところ、考える必要があるんじゃないですか」

 1975(昭和50)年に国籍をアメリカに変えている。 会見では、その理由も聞かれた。 「日本で人びとは常に、お互いの心をわずらわせまいと気にかけています。とても調和の取れた関係性です」、「アメリカではやりたいことができる。他人がどう感じているか、それほど気にしなくていい」、「米国で暮らすって、素晴らしいことですよ。私のような科学者が、研究でやりたいことを何でもやることができる」、「私は調和の中で生きることができません。それが、日本に帰りたくない理由の一つなんです」

 真鍋淑郎さんは、1997(平成9)年に日本の海洋科学技術センター(現・海洋科学研究開発機構)の領域長に就任したが、2001(平成13)年に辞任し、再び渡米、プリンストン大学研究員に戻っている。 当時、地球シュミレーターを利用しての他研究機関との共同研究が、所管の科学技術庁の官僚から難色を示されたのがきっかけで、縦割り行政が学術研究を阻害していることへの不満があったと、報道された。

 新聞の写真、真鍋さんの自宅の壁に、豪快な書の額があり、井上靖が熊野で詠んだ「渦」だという。 私は井上靖の詩が好きで、『詩集 北國』(新潮文庫)があった。 「渦」は、1947(昭和22)年の作。 「静かな初冬の日、藍青一色に凪いだ南紀の海は」と始まる。 真鍋家の額にある「南紀の海はその一角だけが荒れ騒いでゐた。波浪は鬼ヶ城と呼ばれるその岬の巨大な岸壁を咬み」と続く。 詩は後半、「あそこには鬼が棲んでいたのではない。棲んでゐた人間が鬼になつたのだと。」、「眞實、いつか鬼以外の何者でもなくなってゐる己が心に冷たく思ひ當るのであつた。」と終わる。