「福沢諭吉とシーボルト」長崎の擦れ違い2021/10/26 07:12

 17日の「軍部とその周辺の圧力から、慶應義塾を守り抜く」で、富田正文先生の『福澤諭吉襍攷』などが問題になったことに関連して、山内慶太さんの論考の参考文献の載った『福澤手帖』62号(平成元年9月20日)を見てみたら、何と山口一夫さんの「福沢諭吉とシーボルト」という論文が載っているではないか。 山口一夫さんは、明治43(1910)年大分県中津出身、福沢門下生の山口広江の孫で、東大法学部卒、静岡県副知事や行政管理事務次官を務められる傍ら、福沢の海外体験を深く研究され、福澤諭吉協会から『福沢諭吉の西航巡歴』(昭和55年)、『福沢諭吉の亜米利加体験』(昭和61年)、『福沢諭吉の亜欧見聞』(平成4年)を出版されている。 温厚なお人柄の素敵な方で、何度も土曜セミナーで、お話を伺い、帰りに銀座三越の食品売り場でお会いしたことがあった。 私家本『五の日の手紙』に、感想のお手紙も頂いた。

 そこで「福沢諭吉とシーボルト」、文久遣欧使節団の一行を乗せたイギリスの軍艦オーディン号は、文久元年12月29日(1863年1月28日)長崎に入港した、と始まる。 その時長崎にいたシーボルトが突然オーディン号を訪ねてきたが、福沢諭吉は下艦して8年前の遊学時代に世話になった砲術家山本物次郎宅を訪ねていて留守で、二人は会わなかった。

 その頃のシーボルトは、60歳を過ぎてからの二度目の来日時、2か月前に幕府顧問の職を解かれて江戸を去り、長崎に帰り着いたばかりだった。 当分は日本に留まり、どこか自分を使ってくれる国の外交官になって再起したい野望を持っていた。 ロシアの提督リカチョフからシーボルトのペテルブルグ訪問を歓迎する旨の書簡を受け取っていたので、オーディン号に外国奉行として面識のあった正使竹内下野守を訪ね、書簡の内容を伝え、幕府の援助を受けてペテルブルグを訪問する決意を述べ、竹内下野守に側面からの支援を懇願したものと思われる。

 東大シーボルト文書によれば、その書簡は文久元年2月(1861年3月)ロシア軍艦の対馬占拠事件が発生した際、シーボルトがリカチョフに事件の経緯を照会したのに対する返書で、ロシアの行動はイギリス軍艦の行動を牽制するのが目的で、日本に対しては他意のないことを釈明した後、シーボルトのペテルブルグ訪問を歓迎し、露都で駐日ロシア公使に就任するよう要請されるに違いない、と述べていた。 その後段は、シーボルトがリカチョフに頼み込み、無理矢理書いてもらった文面のように思われるという。

 シーボルトはオーディン号で竹内下野守と面談した翌日、幕府の外国奉行に書簡を送り、リカチョフ書簡の内容や竹内下野守との面談を報じ、幕府に対してヨーロッパ出張の旅費として数か月間にわたり毎月500両を支給するよう求めた。 しかし、このシーボルトの日本における最後の自薦運動は効を奏しないまま、3か月後にシーボルトは日本を去ることになるのである。

 オーディン号は、石炭の積み込みを終え、入港2日後の文久2年元旦(1862年1月30日)、次の寄港地香港に向けて出港した。