老野心家シーボルト、一時幕府顧問に2021/10/27 07:14

 山口一夫さんの「福沢諭吉とシーボルト」の続き。 シーボルトは、第一回の来日から30年をへだてた安政6(1859)年にオランダ商事会社評議員として再度日本を訪れた。 この時のシーボルトは往年の青年学究から、60歳を過ぎた老野心家に一変していた。

 当時幕府は、安政条約の実施を迫る諸外国の圧力と、それに反対する国内攘夷論者の突き上げにあって、板挟みになっていた。 老中安藤対馬守は、長崎に在ってロシア軍艦の対馬占拠事件対策や内外貨幣交換対策などを献策していたシーボルトに目をつけ、藁にもすがる気持でシーボルトを幕府の顧問に起用した。 文久元年3月、シーボルトは勇躍上京、赤羽接遇所で、折から発生した東禅寺のイギリス公使館襲撃事件の善後策について安藤対馬守に意見を述べ、また当時不仲であった米英両国公使の和解工作に乗り出した。

 しかし、シーボルトが外国の一私人の身で城中で国事を議すことはわが国の政体儀礼に合わないとして、幕府部内にシーボルト排撃の声があがり、同時に各国の駐日外交官はシーボルトの行動を越権行為として強く非難した。 とくにオランダ総領事ドゥ・ウイットは幕府に抗議して、江戸退去を要求した。 内外からの悪評に抗し切れず、安藤対馬守はシーボルトに乞うて幕府との関係を断ち、シーボルトはその年の暮に長崎に戻り、十日も経たぬ内に(昨日見た)オーディン号に竹内下野守を訪ねることになる。

 福沢諭吉は、咸臨丸でアメリカから帰国して間もなく万延元年11月(1860年12月)に外国奉行支配翻訳御用御雇を拝命して、外国方に勤務していた。 そこで翌文久元年の上のシーボルトの行動や風評を細大漏らさずに知ることのできる立場にあった。 福沢がこの間に翻訳し、または校正した外国文書のうち直接シーボルトに関係する文書は10通に及んでいて、山口一夫さんはそのリストを挙げている。 最初の「蘭人シーボルト出府に関する照会(1861年6月17日付・荷蘭コンシュルより外国奉行宛)」には、長崎から東上して横浜に待機中の、「フヲン・シーボルト君は荷蘭政府の役人に非ず、唯々平人にて……政府はフヲン・シーボルト君を江戸に迎ることを余に報告するの礼儀なきをば、余は甚だ驚異するのみ」というような文言があり、既にシーボルトに対する反感が見られる。