小幡英之助を天皇の主治歯科医にという書簡2021/10/30 06:57

 杉孫七郎宛の書簡は、もう一通『福澤諭吉書簡集』第二巻にある。 書簡番号231、明治11年2月9日付、大意は【小幡英之助が天皇の主治歯科医となるよう斡旋を依頼し、あわせて『民間雑誌』への寄稿を希望する】。

 このころ杉孫七郎は宮内大輔(たいふ)。 私はうっかりしていたが、当時の役所で、親任官である卿(大臣)、勅任官の大輔、少輔(しょう)、大丞(たいじょう)と続き以下、少丞、六等出仕、七等出仕、大録、八等出仕、権大録、九等出仕、中録、十等出仕、権中録、十一等出仕、少録、十二等出仕、権少録、十三等出仕、十四等出仕、十五等出仕という序列になっていて、杉孫七郎は前便の省内ナンバー4から、ナンバー2に出世していた。

 小幡英之助は、小幡篤次郎の兄孫兵衛の嗣子、明治2年5月に慶應義塾に入り、明治5年から横浜でアメリカ人歯科医エリオットに師事し、明治8年に日本最初の歯科医師国家試験に合格して一号免許状を受けて開業した、近代歯科医の先駆者である。

 福沢は杉孫七郎に、こう書く。 小幡英之助は兼ねてご懇命をこうむっている由だが、当今はほとんど都下第一流の名を成した仕合せ者で、なんとか明治天皇の御歯の御療治をして差し上げたいという素志を持っている。 御無病なら御歯の御掃除でもしたいという趣意で、最近は一切万事外国人をつかわれるようだが、この一事については、外人に先鞭を着けられては、英之助の不面目はともかくとして、日本の歯科医全体の栄誉に関し、残念至極と申す熱心なり。 なにとぞ、この事情をご賢察、よき機会があれば、しかるべくご周旋下さりたく、福沢もあえて英之助へ私するのではなく、実は日本に私するなり。 委細は本人から申し上げるけれど、所望により添書一筆この通り。

 尚として、慶應義塾も旧冬中上川彦次郎と小幡篤次郎が英国より帰国、今年から新聞『民間雑誌』に力を入れるとのことなので、ご覧頂いて、時々は寄稿もお願いしたいというのが、新聞連中一統の願い。

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