なぜ、おかの婆さんに育てられたのか2021/11/12 07:07

 そこで、同書所収の「グウドル氏の手套(てぶくろ)」である。 井上靖が、長崎へ行き、自分に多少の関係のある明治時代の二人の人物を偲ぶよすがともなるような遺物(かたみ)を偶然目にすることができた、と始まる。 一つは、友人に丸山の有名な料亭に案内されて見た、松本順の筆蹟である。 「吟花嘯月(ぎんかしょうげつ)」の横額、蘭疇と署名され、松本順とはっきり読みとれる四角の印判が捺してあった。 井上靖は6歳から小学校5年の13歳の春まで、郷里の伊豆の家で、当時50代半ばに達していた、曽祖父潔の妾かの女に育てられた。 母屋の方は林野局の官吏に貸し、のこっている小さな土蔵の二階で、おかの婆さんと二人で暮らした。 曽祖父の師が初代の軍医総監を勤めた松本順だった。 おかの婆さんを通じて、松本順の名は幼い井上の心に、この世で最も尊敬する人物として記憶されていた。

 「一体どうして私がおかの婆さんの手で育てられたかというと、既に曽祖父も本妻のすがも亡くなり、そのあと彼女の妾という特殊な立場もさして問題にされなくなって、いつか家族の一員として、彼女は私の両親の仕送りで生活するようになっていたが、その頃でも若い時から一貫して持ち続けた自分の特殊な立場というものに対する不信の念は抜けず、曽祖父から代は三代も変わっていたが、やはりあととり息子というだけのことで、おかの婆さんは私を自分の手に握っておきたかったようである。/その頃は私の父や母も若く、おかの婆さんの執拗な要求もあって、寧ろ子供を引き取ってくれるのならそれはそれで楽でいいぐらいの気持で、私を彼女の手に託したものらしかった。要するに、私はおかの婆さんに取られた人質であったのである。」

 「おかの婆さんは、少年の私にも美しく見えた。少し険のある顔ではあったが、若い時は随分目立った顔であろうと思われた。彼女は、私の郷里とは天城一つを隔てた山向うの港町の出であるが、十八、九の時東京で芸者に出て、直ぐ曽祖父潔と知合いになり、間もなく落籍(ひか)されて潔が江川家(韮山の代官)の抱え医者となったり、最初の県立病院長として掛川、三島、静岡等を転々としている間中、ずっと任地に囲われており、潔が四十歳で健康上の理由で郷里に引っ込んで開業するようになった時、彼女は初めて半ば公然と、曽祖父の第二夫人として郷里へ姿を現わしたのである。その時彼女は二十六歳であった。」

 曽祖父潔が伊豆に引退して開業した後も、松本順との交流は続き、松本順は何度か伊豆に曽祖父を訪ねて来ている。 それは金策のためらしく、借金のかたの松本順の筆蹟が十数点残っていた。 「豪(えら)い方というものは、何事にも秀(ひい)でなされている。お医者様としてあれほどお豪いが、そればかりでなく、お歌を作られても、字を書かれても、先生に敵(かな)う者は、この日本の国には一人もなかった。よくそうおじい様は言いなされた。見てごらん、あの字の勢いのいいこと!」 おかの婆さんは、そう言って土蔵の二階の欄間にかかっている二枚の横額を、何も判らぬ少年の私に示すのが常であった。 一つは「養之如春」、もう一つは「居敬行簡」。 前者には癸未(みずのとひつじ)早春、即ち明治16年とあった。