アンプルの需要が盛んだった頃2021/11/27 07:06

 父の工場は、馬場アンプル製作所という名だった。 アンプルといって分かる人の年齢は幾つくらいからだろうか。 平成生まれは、知らないかな。 『広辞苑』、アンプル【ampoule(フランス)】[医]薬剤を無菌・清浄な状態で保存するための密封式のガラス容器。アンプレ(Ampulle(ドイツ))。 フランス語とは知らなかったが、ドイツ語で普及しなかったのが面白い。 お医者さんが注射をするのに、アンプルの先端部と薬剤の入った本体との間、首の細いくびれを、小さなハート形のヤスリのようなカッターでクルッと一周して傷をつけて、ポンと先端部を折る。 注射器の針をアンプル本体に差し込み、注射器のピストンを引いて、注射筒に薬液を吸い込んで、患者の腕などに注射針を刺し体内に注入する。 感染症などが問題にならない頃は、一応は煮沸して使っていたが、注射器や注射針を使い回ししていた。

 戦争直後、食糧不足から栄養失調になる人も多く、ビタミン剤がよく売れた。 注射は即効性が感じられたのか、ビタミン剤やブドウ糖の注射(陰ではヒロポンなどもあったか)が、盛んに行われ、朝鮮戦争の特需もあって、アンプルの需要が大量に増加した。 典型的な家内工業で、ガス細工による職人の手仕事だったアンプル生産を、父は、工場でテーラー・システムを導入、工程ごとの分業にした多量生産を工夫したり、最初に機械化したり、アンプルの徐冷をベルトコンベアの炉で行なったりして、おりからの需要の増加に応えることに成功した。 「多少盛んな時期があった(材料の管を小松川工場で生産)」というのは、この頃のことである。

 工場の中に、事務所の前庭を作ったり、半分はコンクリの変なテニスコートがあったりした。 野球チームは軟式だったが、結構強くて、東京都の健康保険の大会などで、いいところまで行っていた。 われわれ子供も、ユニホームを着た写真がある。 工場の庭で、正月には出初式のはしご乗り、お盆は屋台を組んで、ご近所の方々も入ってもらって、盆踊りをやっていた。 長くご近所にお住まいの方には、ご記憶の方もあるかもしれない。 雪が降ったのを一カ所に集めた山で、子供はスキーやソリで遊んだこともあった。