『夏潮』季題ばなし「海水浴」 ― 2021/12/03 06:58
11月30日に枇杷の会の鴫立庵句会で、福沢先生の「大磯の恩人」という文章の話をしたと書いたが、「等々力短信」715号1995.8.15.「大磯の恩人」は、ブログの、大磯の恩人〔昔、書いた福沢68〕<小人閑居日記 2019.6.23.>で読んでいただけるけれど、『夏潮』に二年間連載させて頂いた「季題ばなし」2011年7月号「海水浴」、2012年6月号「虎ヶ雨」はブログには出していない。 それで、ここに引かせていただくことにする。
季題ばなし(第十二回) 『夏潮』2011年7月号
「海水浴」 馬場紘二
「潮浴(シホアビ)のことである」と、『ホトトギス新歳時記』第三版は、まず言う。「海水浴」は、今や誰もが「カイスイヨク」と読むだろうが、明治の中期まで「ウミミズアユミ」と読み、波打ち際で身体に波を当てて皮膚や病弱な体を鍛える、いわゆる潮湯治(シホタウジ)として親しまれていた民間療法だったのだそうだ(畔柳昭雄著『海水浴と日本人』中央公論新社)。『ホトトギス新歳時記』は続いて「夏の暑さをしのぎ、また健康のため盛んに行なわれる。子供たちや若者にとっては、もっとも楽しい夏の遊びである」と記す。畔柳さんは、次第に「カイスイヨク」と読まれるようになり、この遊泳や余暇活動の色彩を帯びるのは、明治二十一年頃からだと述べている。
福沢諭吉に「大磯の恩人」という一文がある(『福澤諭吉全集』第二十巻)。福沢が避寒によく訪れていた大磯の旅館松仙閣の主人に渡したものだ。明治初期の医者、松本順(良順)が、大磯は海水浴・避寒の適地だと説いて、この地が日本最初の海水浴場、別荘地になったことを忘れるなと説く。それで昭和四年、共に福沢門下の鈴木梅四郎・文、犬養毅・題字の「松本先生 頌徳碑」が建てられた。「西行祭」の鴫立庵からも程近い、旧東海道・国道一号線さざれ石のバス停から海岸へ出た所に、大きなオベリスクの碑がある。
『海水浴と日本人』は、近代海水浴の始祖として三人の名前を挙げる。長与専斎、後藤新平、松本順だ。長与は初代衛生局長として、明治十四年六月『内務省衛生局雑誌』で「海水浴説」の特集を組んだ。それを読んだ後藤は、かねて尾張の大野浦で経験、観察した潮湯治の効用を『海水効用論 附海浜療法』という啓蒙書にした。松本順は、明治十年の西南戦争中から、自身リウマチを患って苦しみ、庄内の鶴岡に近い海岸の湯野浜温泉で塩湯に浸かり、二週間ほど療養してよい結果を得る体験をした。それでリウマチ療養の相談を受けた親友に、播州舞子浜での海水浴を勧めたところ、治療効果が出たので、本格的に海水浴の普及に取り組む。明治十二年に軍医総監を退任してからは、全国各地に出向き、海水浴の適地を探し歩く。明治十七年、松本はかつて早稲田に開いた医学校蘭疇舎の門下生、大磯で開業している鈴木柳斉を訪ねた。鈴木が案内してくれた照ヶ崎海岸を見て、松本は、そのすぐれた地勢、きれいな海水や美しい砂浜、周囲の山並みに、この地こそ、長年望んでいた海水浴場の適地であると、確信したのである。
山を手にのせて波間のゆあみかな 正岡子規
朝花火海水浴の人出かな 高浜虚子
いたづらに縞の太しや海水著 久保田万太郎
季題ばなし(第十二回) 『夏潮』2011年7月号
「海水浴」 馬場紘二
「潮浴(シホアビ)のことである」と、『ホトトギス新歳時記』第三版は、まず言う。「海水浴」は、今や誰もが「カイスイヨク」と読むだろうが、明治の中期まで「ウミミズアユミ」と読み、波打ち際で身体に波を当てて皮膚や病弱な体を鍛える、いわゆる潮湯治(シホタウジ)として親しまれていた民間療法だったのだそうだ(畔柳昭雄著『海水浴と日本人』中央公論新社)。『ホトトギス新歳時記』は続いて「夏の暑さをしのぎ、また健康のため盛んに行なわれる。子供たちや若者にとっては、もっとも楽しい夏の遊びである」と記す。畔柳さんは、次第に「カイスイヨク」と読まれるようになり、この遊泳や余暇活動の色彩を帯びるのは、明治二十一年頃からだと述べている。
福沢諭吉に「大磯の恩人」という一文がある(『福澤諭吉全集』第二十巻)。福沢が避寒によく訪れていた大磯の旅館松仙閣の主人に渡したものだ。明治初期の医者、松本順(良順)が、大磯は海水浴・避寒の適地だと説いて、この地が日本最初の海水浴場、別荘地になったことを忘れるなと説く。それで昭和四年、共に福沢門下の鈴木梅四郎・文、犬養毅・題字の「松本先生 頌徳碑」が建てられた。「西行祭」の鴫立庵からも程近い、旧東海道・国道一号線さざれ石のバス停から海岸へ出た所に、大きなオベリスクの碑がある。
『海水浴と日本人』は、近代海水浴の始祖として三人の名前を挙げる。長与専斎、後藤新平、松本順だ。長与は初代衛生局長として、明治十四年六月『内務省衛生局雑誌』で「海水浴説」の特集を組んだ。それを読んだ後藤は、かねて尾張の大野浦で経験、観察した潮湯治の効用を『海水効用論 附海浜療法』という啓蒙書にした。松本順は、明治十年の西南戦争中から、自身リウマチを患って苦しみ、庄内の鶴岡に近い海岸の湯野浜温泉で塩湯に浸かり、二週間ほど療養してよい結果を得る体験をした。それでリウマチ療養の相談を受けた親友に、播州舞子浜での海水浴を勧めたところ、治療効果が出たので、本格的に海水浴の普及に取り組む。明治十二年に軍医総監を退任してからは、全国各地に出向き、海水浴の適地を探し歩く。明治十七年、松本はかつて早稲田に開いた医学校蘭疇舎の門下生、大磯で開業している鈴木柳斉を訪ねた。鈴木が案内してくれた照ヶ崎海岸を見て、松本は、そのすぐれた地勢、きれいな海水や美しい砂浜、周囲の山並みに、この地こそ、長年望んでいた海水浴場の適地であると、確信したのである。
山を手にのせて波間のゆあみかな 正岡子規
朝花火海水浴の人出かな 高浜虚子
いたづらに縞の太しや海水著 久保田万太郎
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