日本開国、フィルモア大統領とペリー2021/12/12 07:13

 フィルモア大統領と日本開国について、少し詳しくみてみる。 1850年のカリフォルニア州の加入(政治的確定)までは、日本は〝中国のその先〟、まさに「極東 Far East」だったが、カリフォルニア州からは、西回り「Far(Near?) West」となり、アメリカは英国に対して有利な地位に立った。

 1851年5月に日本遠征隊派遣が決定されたが、ペリーの主張と実態は違う。ペリーは1856年に出版された『日本遠征報告書』で、自分の提案を政府が受け入れ、自分に託したと主張。 ペリーが1851年1月に海軍長官に提案したのは事実だが、政策決定に重要な提案はグリン艦長(長崎でラゴダ号遭難船員救出の功績あり)とオーリック提督(東インド艦隊司令官)のもの。(フィルモア、グリンと面談の事実) オーリックの提案を採用し、遠征隊派遣決定、フィルモアから将軍(「日本皇帝」)あて国書をオーリックに託し、派遣した。 国書の日付は1851年5月だったが、オーリックは途中で解任され、「幻の国書」。 ペリーはオーリック解任後、その後任司令官になることを躊躇したが、結局、指名を受け入れ、1852年春に正式に任命。 一年弱、周到な準備に当て、特に戦艦の数を増やした。 1852年11月初め、新たな「国書」を携行、ペリー日本遠征隊11月24日出航。

 フィルモア大統領の1852年「年次教書」(12月6日付)は、日本が外交課題として言及された最初の大統領教書。 ペリーの出航から二週間足らず、まだ遠征隊の成果はまったく不明の段階だった。 米太平洋岸の州の繁栄のためにという日本開国政策の目的を含め説明し、太平洋の対岸にあるアジア諸地域が相互に有益な交流のために開放される試みが行われるべきである、とする。 この試みを行うに当たり、遠方の地を植民地として従属させることを容認していない憲法体制を持つ米国は、他のいかなる国より大いに有利な立場にある、とし「海軍において最も高位である将官に、日本に向かうように命令した」と、ペリーの名が出ていない。 また、外交的に重要なことは、オランダに日本現地での協力を要請したことも明らかにしていることだ。(ペリーは、オランダには不信感)。 フィルモアと在オランダ・フォルサム公使は親しく、フォルサムがオランダ外務省に要請し、オランダは好意的に対応してくれた。

 フィルモア大統領は「1850年の妥協」の後、その重要な要素だった「1850年逃亡奴隷法」を強硬に履行したことで、北部諸州の反奴隷制勢力から激しく非難され、その評判は最悪となり、米国史から消えた。 その結果、日本開国について、外交イニシャチブをとった業績も無視された。

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