飯沢匡さんの「知られざる福沢諭吉」2021/12/18 07:06

 私が福沢とユーモアや笑い、北沢楽天や今泉一瓢(秀太郎)との関係をくわしく知ったのは、飯沢匡さんの岩波新書『武器としての笑い』(1977(昭和52)年)を読んだからだった。 飯沢匡さんは、第III章「笑う日本人」の二に「知られざる福沢諭吉」という一節を設け、漫画の推進者―北沢楽天の発見 宣伝絵画の嚆矢―伝単「北京夢枕」の効果 諧謔家としての福沢―戯作調の「漫言」 ジョークの鼓吹―『開口笑話』の重要性、について書いている。

 まず飯沢匡さんは、本来が喜劇専門の劇作家であるから滑稽について人一倍、敏感なつもりであるが、福沢には、そのセンスがあり、また漫画の社会における重要性も十分知っていた。 それは、のちに『時事新報』に北沢楽天を高額の月給で迎え、縦横に筆を振わせ政治を諷刺し、国際外交を漫画で批判させたことで判るのである、とする。

 飯沢匡さんは、十代の青春時代、福沢の死後半世紀経った慶應大学を早稲田より都会的、何となく軽薄で、慶應ボーイというと、とても鼻持ちならぬものを感じていた。 福沢は平俗を好んだが軽薄は嫌いであった。 飯沢さんの父親は、明治2年の生まれで、慶應義塾普通部に入り明治20年に卒業している。 その父を通じて福沢在世当時の慶應義塾の学風を容易に想像することが出来た。 福沢の伝記を読んだり、直接著作を読んでみると、父との共通点を発見して、父に福沢の影響が多大で、またその父に育てられた自分も間接的に福沢の影響を受けていることを否定できないのである、という。

 平明を愛し、儒学的固陋(ころう)つまり固定観念を嫌い、自由な精神を貴び、実証的、具体的で小難しい抽象論を嫌った。 神仏に信仰心が薄く迷信を排撃し、諧謔や皮肉を好んだ。 そして不品行を嫌い潔癖を愛した。

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