動物学志望、渋沢敬三と北杜夫2021/12/26 06:54

 大河ドラマ『青天を衝け』は、19日放送の第40回「栄一、海を越えて」で、いよいよ最終回を残すのみとなった。 渋沢栄一(吉沢亮)は、嫡男篤二(泉澤祐希)が、第五高等学校の頃からの放蕩の癖が止まず、芸者玉蝶と暮らし始めたので廃嫡する。 篤二の長男、敬三(笠松将)は昆虫好きで、仙台の第二高等学校農科に進み、動物学を専攻することを希望していた。 祖父の渋沢栄一が、顕微鏡や図鑑、昆虫標本などのある篤二の部屋にやって来て、手を付き床に頭をこすりつけて、命令ではないが、農科でなく法科に進んで、実業家になってもらいたいと、懇願した。

 私がすぐ思い出したのは、父、斎藤茂吉を描いている北杜夫の短編「死」である。 北杜夫の斎藤宗吉は、生涯に一度、自分の主張を通そうとして、手紙で(面と向かったらとても言えたものではない)父と争った。 子供の頃から昆虫採集にのめりこんでいて、大学へ行くとき、動物学をやりたいというのが、その主張だった。 父は衝撃を受けたらしく、珍しく初めは「です」調の長い手紙を寄越した。

 「○宗吉が動物学を好きなことに対して、父は万腔の同情を持ちます。父も少年から青年まで動物学が好きだつたからです。

○ところで、動物学を専攻するとして、大学三年で卒業後、どういふ実生活に入りますか、貧乏しながら大学助手になつてしばらく研究するとして、その後は教員生活をしますか、或は何処かの技師にでもなりますか、只今の動物学者といふ人は、どういふ生活をしてゐますか、これが父にとつても一番知りたい事であり、又、一番不安な点であります。恐らく安楽な生活が出来ず、特に家庭生活に入るとき、非常に不安な点があるのではないかといふ気がします。

○茂太なども、平和なら、研究に従事して学位でもとるやうに方針を立てたのでしたが、敗戦後は全くその方針が破れてしまつたのです。目下では神経科は見込がありませんから、宗吉には外科をでも専攻させて、茂太とは別に独立して生活させようかと、父は夜半の目ざめなどに予想してゐたのでした。これならばどうにか生活が出来さうである。家庭を持つてもどうにか暮して行けさうである。大学の助手をしてでもどうにか暮して行けるといふ大体の目算でした。」(中略)

「父も既に老境である。先づ「老残の軀(からだ)」と謂(い)つてよい状態に入つた。○父は無限の愛情を以てこの手紙を宗吉に送る。よくよく調査の上、熟慮の上、至急返事をよこせ。」

手紙は次第に怖ろしくなる。 「併しまだ手遅れではない。この手紙著次第真に目ざめよ、昆虫など棄てよ。そして一心不乱に勉強せよ。」「今ごろ昆虫の採集で時間と勢力を使ふといふのは何といふバカであらうか。」「明春の入学試験が心配なのだ。それは、動物や植物などならば、低能学生でも無試験位で入学出来るだらう。医科(特に東大の医科)はさうは行かないよ。そこで学生等は一心不乱に勉強してゐるのだ。今時分の最も大切な時にメスアカムラサキだの、ファブルなどと言つて居られないのだ。宗吉は松高に入るまでは優秀であつた。高校に入つてからはおだてられてバカになつたのだ。いかに恐ろしいことか。」

宗吉、北杜夫は、動物学志望を断念した。 「このような手紙を貰って、なおかつ父に逆うほど私は神経が強靭ではなかった。」とある。