渋沢栄一が孫敬三を二代目とした事情 ― 2021/12/27 07:09
渋沢敬三については、若い時に、実業と学問との二足の草鞋を履いたことに興味を覚えて、いろいろ調べ、『渋沢敬三という人』なる小冊子を手作りしたことがあった。 しかし渋沢栄一との関係、父篤二を措いて二代目を継ぐ話は、さらっとしか書いていなかった。
渋沢敬三を『ウィキペディア』でみると、やや詳しいことが書いてあった。 渋沢敬三は1896(明治29)年8月25日に渋沢栄一の長男篤二と敦子夫妻の長男として深川で生まれた。 敦子の父は羽林家の公卿出身の元老院技官を務めた伯爵橋本実梁。 1909(明治42)年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)入学。 深川でペストが流行ったため、三田に転居。
さかのぼって、父篤二は、1872(明治5)年、栄一・千代夫妻の長男として生まれた。 10歳で母を亡くし、父栄一が再婚したため、姉の穂積歌子、陳重夫妻に養育される。 1892(明治25)年、20歳で熊本の第五高等学校中退、栄一に謹慎を命じられたのち、1895(明治28)年、23歳で結婚、翌1896(明治29)年、敬三誕生。 翌1897(明治30)年、渋沢家直轄事業の渋沢倉庫が設立され、倉庫部長に就任、1899(明治32)年、義兄穂積陳重の渡欧に随行、帰国後第一銀行に勤務した。 趣味多く、写真撮影、常磐津、都都逸なども玄人はだしの才人で、1911(明治44)年には新聞に新橋芸者・玉蝶(本名・岩本イト、1887年-1955年)との仲が報じられる。
敬三が18歳になった1913(大正2)年、栄一の決定により篤二を廃嫡とし、篤二長男の敬三を嫡孫、後継者に指名した。 篤二が一族の長となるには蒲柳の質が心配されており、栄一は自身の没後の篤二と、その異母弟らとの家督を巡る争いの芽を摘むための措置をとったものと考えられている、という。
敬三は、1915(大正4)年4月に東京高等師範学校附属中学校を卒業すると同時期に、渋沢同族株式会社が設立され同社の社長となる。 当初は動物学者を志し、仙台の第二高等学校農科への進学を志望していたが、敬三に期待する栄一が羽織袴の正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、英法科に進学することにする。 7月には仙台の第二高等学校試験に合格し、9月に同校に入学する。 1918(大正7)年、東京帝国大学経済学部入学。
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