『渋沢敬三という人』実業と学問と ― 2021/12/28 07:29
私が『渋沢敬三という人』を書いて小冊子にしたのは42歳の1983(昭和58)年7月だから、以後ほぼ倍の歳月を生きたことになる。 その生き方暮し方のバックボーンの一つに、渋沢敬三への憧れがあったと言ってもいいのかもしれない。 そこで『渋沢敬三という人』を、大晦日まで4回にわたって再録したい。 なお、当日記でも、2009年の6月26日~7月4日、7月10日~12日に出したことがある。
『渋沢敬三という人』
ワープロ専用機「文豪」を使い始めて1年ほどたった1983(昭和58)年7月、『渋沢敬三という人』という小さな本を手作りした。 ワープロで打ったものをコピーして、当時少しかじっていた製本で、32ページの和綴じの本に仕立てたものだ。 こんど沼津に行って、渋沢敬三と三津浜付近の漁民とに関係があったことを思い出して、ひっぱり出してみた。 渋沢敬三という人物の魅力もあって、自分でいうのも何だが、なかなか面白い。 私は学校を出てしばらく渋沢栄一のつくった銀行に勤めたので、その点からも渋沢敬三に興味があったのだろう。 若書きながら、何回かに分けて、その『渋沢敬三という人』を紹介してみたい。
(1)実業と学問と
渋沢敬三は明治29年渋沢篤二の長男として深川に生れた。 父篤二は渋沢栄一の長男であったが、身体が弱く、実業にも興味がなかったため、廃嫡になり、敬三は16,7歳で渋沢栄一の直接の後継者として、渋沢財閥と一族を束ねなければならない特殊な立場に立つことになる。 中学時代から生物学に興味を持ち、高等学校では当然理科に進みたいと考えていたが、命令はせず、ただ頭を下げて頼むという祖父栄一におがみ倒されて、大正5年仙台の第二高等学校英法科に入る。 栄一は自分の自動車に敬三を乗せ、上野駅まで送った。 駅では栄一がどこかに旅行するのかと考え、駅長が先導したりして大騒ぎをしたという。
大正10年、東京帝国大学経済学部を出て、横浜正金銀行に入る。 この年、三田邸内の物置二階を標本室として、郷土玩具の研究等をするアチック・ミューゼアム・ソサエティという集まりを始める。 ロンドン支店勤務のためアチックは中断、ヨーロッパの博物館を見て大きな影響を受ける。 大正14年正金を退職、アチック復興第一回例会を開き、民具の収集の方向に進む。 父祖の業である第一銀行に入り、翌15年に取締役。
死後、発見された「希望書」という文章には、「自分は縁あって財界に身をおき、第一銀行、日銀、大蔵省、国際電電などいろいろな所に世話になったが、自分の一番命としたものは実業ではなく、やはり学問であった」とある。 「私は実業に志してはいなかったので、銀行は大切だとは思いましたが、面白いと思ったことは余りありません。 真面目につとめておりましたが、人をおしのけて働こうという意志も、ありませんでした」とも、別の本に書いている。
『日本の民具』の序文で、小泉信三は、「日本魚名の研究」のあとがきに「昭和12年元旦から毎朝6時半から8時半までの2時間をこれに充当約2年かかった」とあるのを引き、「当時渋沢さんはまだ第一銀行首脳者であった筈と思はれるが、その公務と社交に忙しい銀行家が毎日出勤前の2時間を研究に充てるといふが如きことは、よく話にはあるが、実行は生ま易しいことではない」と書いた。
「わが食客は日本一」(『文藝春秋』昭和36年8月号)と渋沢が書いた民俗学者宮本常一は、昭和14年から36年まで、途中とぎれたことはあるが、23年間渋沢の食客だった。 その宮本が『民俗学の旅』という本に、昭和15,6年ごろの渋沢の勉強ぶりをこう書いている。 「その頃渋沢先生は魚名の研究から発展して『延喜式』に見えた水産物の研究に熱中していた。 それは全く熱中という言葉よりほかに表現のしようがなかった。 毎日銀行からの帰りは9時をすぎていた。 そしてアチックの広間へ来てしばらく雑談して書斎へはいり、私への呼び出しがかかるのが普通であったが、昭和15年の後半からは夜半になって呼び出しが多かった。 そして、話しこんでいると、夜が白みかけて来ることが、しばしばであった」
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