『青春スクロール 母校群像記』「慶應志木高校」2021/12/06 07:09

 <オミクロン来ぬ間の吟行冬の凪>ではないけれど、11月30日昼、慶應志木高新聞のOB会が、日本橋ゆかりという料理屋さんであった。 私より一年上からの創刊メンバーと、一年下の幹事役二人、さらにもう一人、数年前に現役との橋渡しをしてくれた出版社社長の計八人、コロナ禍の延期で二年ぶりの再会だった。 話題に名前の出た一年下の部員の車で、私は生徒会で集めた伊勢湾台風(1959(昭和34)年9月26日)の救援物資を有楽町の朝日新聞本社に届けたことがあったから、茫々60年以上前の仲間である。 三田新聞も報じた慶應義塾の財政難の記事を志木高新聞に載せて、「危機に立つ義塾」という見出しを立て、創刊編集長のIさんが教員室か校長室に呼び出されたことは、毎度話題に出る。

 一年上のGさんが、朝日新聞埼玉版が昨年2月13日から6月12日にかけ土曜日に14回連載した『青春スクロール 母校群像記』「慶應志木高校」をコピーしてきてくれた。 毎回ほぼ3人を取り上げ、インタビューしている。 同期の大塚宣夫さん(青梅・よみうりランド慶友病院「慶成会」会長)始め、顔見知りや名前を知っている人も何人かいる。

 インタビューの答のエッセンスを拾えば、以下のようになる。 慶應で体育会と呼ぶ運動部出身の人が多くて、そこで頑張ったことが、その後の人生に生きている。 志木高には豊かな自然と、おおらかな奴が多い、個性的ないい仲間がいて、挑戦する自由な校風があった。 自分で自由に好きなことをやる校風だった。 自由な代わりに、自分で責任を取ることを学んだ。 他人がどう考えても、その人の自由で、個性が認められていた、多様性を認める学校だった。 慶應義塾大学で経済学部の教授、学部長になった塩沢修平さん(東京国際大学長)は、好きなことを学ぼうという学問に対する向き合い方を教えてもらった、と言っている。

「自我作古」「独立自尊」の伝統2021/12/07 07:05

 慶應義塾志木高校は、1948(昭和23)年に開校した慶應義塾農業高校を経て、1957(昭和32)年に普通高校に転換すると同時に、今の校名に改めた。 私はその年に入学した、普通高校の1期(農高から通算10期)生だ。 皆、新しい学校をつくりあげるのだという気分に満ちていた。

 後に、福沢諭吉先生に「自我作古」、我(われ)自(よ)り古(いにしえ)を作(な)す、という言葉があるのを知った。 みずから新しい分野の開拓者となることを意味する。 慶應4(1868)年、学塾を慶應義塾と命名し、「慶應義塾之記」を発表したが、そこで前野良沢、桂川甫周、杉田玄白など蘭学を切り開いた人たちの努力に触れ、「只管(ひたすら)自我作古の業にのみ心を委(ゆだ)ねた」と、彼らの研鑽を評し、慶應義塾が洋学を継いでいく使命を示している。

『青春スクロール 母校群像記』の冒頭、「各界に約1万6200人を輩出。慶應義塾の創設者、福沢諭吉が説いた「独立自尊」の精神と共に活躍する卒業生の青春を追う」とある。 昨日、そのインタビューの答のエッセンスを拾い出していて、普通高校転換初期に私が感じていた校風と同じものが色濃くあるのを感じた。 おこがましく、われわれが、その礎を作ったと言いたいところだが、実は、慶應義塾という学校の伝統だったのである。 それに改めて気づかせられた。 孫悟空が筋斗雲に乗って、どんなに遠くに飛んで行っても、お釈迦様の手のひらの中だったという『西遊記』を思い出す。

「慶應義塾志木高新聞」百年祭記念号2021/12/08 06:59

 真珠湾攻撃80年の日である。 昭和16(1941)年生れの私も80歳、紘二の「紘」は「八紘一宇」の「紘」なのだ。 慶應義塾が創立150年を迎えた2008(平成20)年、『三田評論』11月号、特集 学塾の歩みを記録する、巻頭随筆「丘の上」に、「「慶應義塾志木高新聞」百年祭記念号」を書かせていただいた。 どなたが推薦して下さったのかわからないが、編集部から依頼があった。 肩書などないから困って、「個人通信「等々力短信」発行人」としてもらった。

       「慶應義塾志木高新聞」百年祭記念号

                   馬場紘二(個人通信「等々力短信」発行人・塾員)

 慶應義塾が創立百年を迎えた一九五八(昭和三十三)年、私は志木高校の二年生だった。あっという間に五十年の歳月が流れた。その五十年の物差しを、さらに二つ伸ばしただけで、安政五年・一八五八年の福沢先生の塾創立に至ることに、改めて驚く。

 慶應義塾志木高校は、その前年に農業高校から普通高校へ転換、一期生の私たちは新しい学校を第一歩からつくりあげることになる。クラブ活動もあいついで新設された。一年生ながら先輩たちと協力して、学校新聞の発行、生徒会の創設、日吉高や女子高との提携活動などに、走り回った。百年祭の年には、生徒会が発足、塾創立百年・志木高創立十周年記念の収穫祭も、実行委員会を組織して初めて生徒の手で開催した。この記念すべき年の秋、たまたま私は新聞部の編集長と生徒会の委員長だった。

十一月八日に新設の日吉記念館で開かれた塾創立百年記念式典に参列し、十二日の「塾生の日」記念式典には全校生で参加をした。「慶應義塾志木高新聞」は十一月十四日、第六号「百年祭記念号」を発行した。一面を担当し、お言葉を述べられる昭和天皇の写真をトップに、「義塾百年のクライマックス」〝慶應の新しい出発点〟「天皇陛下迎えて記念式典」の大見出しを立てたことは、忘れられない。記事には奥井復太郎塾長が式辞で「過去の百年を思うより、これからの百年がどうなるかが問題である。われわれは次の百年に出発しなければならない」と述べ、陛下もお言葉で「今後さらに協力一致して、この輝かしい伝統を守りわが国文運の進展に寄与するよう」望まれた、と書いた。「塾生の日」記念式典で塾長が述べた「今日は考える日だ。慶應の明日を背負うのは君たちなのだから」という式辞も記事にしている。百年記念式典から六日、「塾生の日」から二日、この短期間で新聞を発行するには、陛下の写真を実況中継のテレビの画面から撮ったり、それなりの苦心もした。当時使っていた新橋の時事印刷所に通い詰め、一般紙を真似た速報を喜んだ高校生らしい気分も、なつかしい思い出だ。

一面は、あと三枚の写真で構成されている。右下は十一月七日、上大崎の常光寺で行なわれた福沢先生の墓前祭での奥井塾長、左下の二枚は自動車パレードと福沢諭吉展会場である。キャプションに、自動車パレードは十一月八日十二時半より志木高からも一台参加し日吉から神宮まで三時間百台の大パレード、福沢諭吉展は十一月四日から十六日まで日本橋三越で開かれており隣の明治天皇展と共に人気をよんでいる、とある。

 当時、日吉高と女子高は、すでに日吉祭を共同で開催するなど、うらやましい提携を進めていた。新聞部は、両校との提携の先端を切って、一九五八年三月には三校合同の新人養成講習会に参加し、初歩から新聞製作を学び、後には『ザ・ジャーミネーター(発芽力測定装置)』という研究新聞を共同で発行したりした。この頃の三校の新聞部仲間は今でも、毎年六月に「ジャーミネーターの会」を開いて、旧交を温め講演を聴く楽しい集いを続けている。

 友人知人に個人通信「等々力短信」を送りつづけて三十三年、この十月で九九二号になる。近年は「轟亭の小人閑居日記」というブログを毎日書いている。そのルーツを尋ねれば、間違いなく高校新聞に行き当たる。書くことと、それが活字になって、読んでもらえることの喜びは、高校新聞で覚えた。

最近は、志木高同窓会「志木会」の俳句の会「枇杷の会」をご指導いただいている縁で、本井英元教諭主宰の俳誌『夏潮』に入会し、俳句を詠んでいる。しかし、少しも上達しない。少年の日に叩き込まれた5W1Hの新聞文章と、説明になってはいけない俳句との、相克に悩む今日この頃である。

ペリーを日本に派遣した大統領2021/12/09 07:00

 4日、二年ぶりに福澤諭吉協会の土曜セミナーが、交詢社でリアル開催された。 元外交官で日本国際問題研究所客員研究員、大島正太郎さんの「日米関係事始め~1850年代、60年代の両国関係~」を聴く。 頭をガツンとやられる、衝撃的な新知見が二つあった。

 1853年7月(嘉永6年6月)ペリーが東インド艦隊の黒船を率いて浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出、翌年江戸湾に再航、横浜で日米和親条約を結び、日本は開国した。 ペリーが日本を開国させた、というのが教科書でも習った常識である。 大島さんは、「日米関係の原点は、1851年に、時の大統領フィルモアが日本に開国を求める国書を将軍に渡すため遠征隊派遣を決定したことにある。」とする。 つまり、ペリーはフィルモア大統領によって派遣されたのであって、日本開国に向けた外交を主導したのはフィルモア大統領だったというのである。 私などは、フィルモアという大統領の名前も知らなかった。 これが衝撃的な新知見の第一である。 そう言われて見れば、ペリーは国書を持ってきたのであった。

 フィルモアが、日本開国に向けた外交を主導した詳しい状況や、当時のアメリカの政治情勢については、いずれ書きたい。 第二の新知見は、また明日。

慶応3(1867)年、軍艦受取委員の実相2021/12/10 07:05

 福沢諭吉は、万延元(1860)年咸臨丸渡米の後、慶応3(1867)年に幕府の軍艦受取委員長小野友五郎の一行に加わり二度目の渡米をした。 小野友五郎は、長崎の海軍伝習で測量航海術を修め、咸臨丸にも軍艦操練所の教授方(航海長)として乗船、測量航海技術を発揮し同乗していたジョン・ブルック(この航海に実質的に貢献したアメリカ海軍軍人)に評価されていた。 小野は文久2(1862)年、アメリカと軍艦購入交渉をして、ハリスについで二代目公使となったプラインと、3隻建造を契約した。 しかし、実は、プラインは個人の資格で「エージェント」として行動していた。 一隻目「富士山丸」は慶応2(1866)年に横浜に到着したが、あと二隻分については全く音沙汰なしだった。 そこで幕府は慶応3(1867)年、小野友五郎を団長とする使節団を訪米させ、二隻分の費用を取り戻し、新たに中古軍艦の購入を図った。

 ただの軍艦受取の渡米かと思っていた私は、あらためて『福翁自伝』「再度米国行」を見たら、ちゃんとアメリカの公使ロベルト・エーチ・プラインに買い入れを頼んで80万ドル渡してあったのだが、日本を出る前から先方との談判に必要な80万ドルの受取がないことが、わかっていた。 ちょいとした紙切れに、10万とか5万とか書いてあるものがなんでも10枚、その中にはしかも三角の紙切れにわずかに何万ドル受取りとして、プラインという名ばかり書いてあるのが何枚かあった。 出発前にずいぶん議論して、日本の政府がアメリカの政府を信じたのだ、この書き付けなどは、もとより証拠にしないと出ようと相談をきめて、出かけた。 アメリカに行って、その話をすると、すぐに前の公使プラインが出てきて、「ドウですか船を渡すなり金を渡すなりドウでも宜(い)いと、文句なしに立派に出掛けて来た」(松沢弘陽さんの校注「立派な態度で応じた」)とあった。

 プライン公使(Robert H. Pruyn)は、ニューヨーク州政界で州下院の議長を務めるなど重きをなした政治家で、同州出身のスワード国務長官と親交があり、スワードの要請を受け駐日公使の職を引き受けた。 日本に行くことにした背景に実業家でもあった彼が、多額の負債を抱え、外交官の給与をあてにしたと言われた。 ハリスは、1862年4月に将軍に謁見し、公使解任状を提出したが、その離任前にプラインは到着した。 プラインは、幕府との軍艦建造をめぐる不可解な取引後、1865年4月休暇帰国を名目に離日、6月旅行先から辞表を提出している。

 藤井哲博著『咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯』(中公新書)等を参照した、大島正太郎さんはつぎのように述べた。 慶応3年1月、アメリカに向けて出港した小野使節団は、1867年4月22日ニューヨーク着、プラインと面談、先方はワシントンでの決着を約した。 旧暦3月28日、国務省でスワード国務長官と会見、老中連名の書簡手交。 4月1日(西暦5月3日)、ジョンソン大統領表敬(スワード同行)。 西暦5月4日、スワード国務長官、自宅での晩餐会。 プラインがワシントンに来て、小野と面談、西暦5月18日交渉妥結、もって資金返却(約50万ドル)。(当時の50万ドル、現在約14倍とすると700万ドル、円で7700億円になるか?) それで軍艦一隻と武器購入。 旧暦4月11日、南軍から鹵獲(ろかく)した「ストーンウォール号」の購入意思を国務省に伝達、約40万ドルで折り合った。 東艦(あずまかん)となった軍艦である。