天皇の反対にもかかわらず「対米交渉期限を設定」 ― 2022/01/12 06:59
分岐点[4]は9月6日、「対米交渉期限を設定」。 以前、私は『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文藝春秋・1991年)によって、9月6日の御前会議についての昭和天皇の証言を書いていた。 昭和天皇は、「二・二六事件(昭和11(1936)年)と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」と語っている。 開戦については、そうではなかったことになる。 「九月五日午後五時頃近衛(文麿首相)が来て明日開かれる御前会議の案を見せた。之を見ると意外にも第一に戦争の決意、第二に対米交渉の継続、第三に十月上旬頃に至るも交渉の纏らざる場合は開戦を決意すとなつてゐる。之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云つて承知しなかつた。」「私は軍が斯様に出師準備を進めてゐるとは思つて居なかつた。」
「翌日の会議の席上で、原(嘉道)枢密院議長の質問に対し及川(古志郎軍令部総長)(馬場註・永野修身軍令部総長か?)が第一と第二とは軽重の順序を表はしてゐるのではないと説明したが、之は詭弁だ、と思ふ。然し近衛も、五日の晩は一晩考へたらしく翌朝会議の前、木戸(幸一内大臣)の処にやって来て、私に会議の席上、一同に平和で事を進める様諭して貰ひ度いとの事であつた。それで私は豫め明治天皇の四方の海の御製を懐中にして、会議に臨み、席上之を読んだ。」 明治天皇の御製は、<四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさはぐらむ>。
そこで、9月6日の御前会議。 まだ開戦には後ろ向きの天皇を、永野修身軍令部総長は、「大坂夏の陣」の話を持ち出して、七、八割方は勝利の可能性のある緒戦の大勝に賭ける早期開戦を説く。 「帝国は自存自衛を全うする為対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と決定する。
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