戦争回避の奇策、不発に終わる ― 2022/01/15 07:09
分岐点[6]は11月26日、戦争回避の策動があった。 幣原喜重郎の提案で、吉田茂が中心となって極秘に行動し、重臣(元首相)を宮中に呼んで意見を聞くことを画策した。 東條首相は、重臣には責任がないと反対したが、11月29日に重臣を宮中に集めることになった。 しかし11月27日、「ハル・ノート」が届く。 大陸・仏印からの全面撤退、三国同盟からの離脱など、アメリカの原則論を変わらずに主張していた。 東條首相と統帥部は、外交交渉を否定するアメリカの最後通牒だと判断した。
それでも11月29日、重臣たちが宮中に参集した。 東條首相が経過を長時間説明し、東郷外相も「ハル・ノート」で外交交渉が困難になったことを話した。 重臣からは、開戦への危惧がもれた。 岡田啓介は物資の輸送の懸念、近衛文麿は外交交渉が困難でも開戦は避けられないか、米内光政は有名な「ヂリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう十分のご注意を願いたい」と、言った。 東條首相はそれぞれに反駁し、戦争回避の最後の一手は、不発に終わった。
12月1日の御前会議で、対米戦争の開戦が決定。 12月8日の真珠湾攻撃となった。
「1941日本はなぜ開戦したのか」。 中野信子さん、本来の敵は「貧困」、テクノロジーがなかったりでの「貧困」、臥薪嘗胆の先を示すべきで、声をあげる人が出て、そこに向かって戦うべきだった。 小谷賢さん、決められない政治、問題の先送り、世論の影響など、今に通じることを学ぶ必要がある。 薮中三十二さん、平和を作るのは日本、外交をきちんとやること。 真山仁さん、自分は昭和30年代生まれだが、親たちは「戦前の体制が残らず、負けてよかった」と言っていた。 一ノ瀬俊也さん、昭和初期からの「貧困」の解決のために、大陸進出、資源を求めることになった。 平和主義と言論の自由が大切。 ここで、永井荷風『断腸亭日乗』の予見を高く評価し荷風はタダ者でないとした(それは、明日書く)。 そして杉浦友紀アナが珍しく、80年はすぐ前のこと、今のわれわれの問題だと、まとめた。
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