海軍軍縮会議と堀悌吉、艦隊派対条約派2022/01/20 06:59

   海軍軍縮会議と堀悌吉、艦隊派対条約派<小人閑居日記 2014.8.22.>

 第一次世界大戦後も、列強は相変わらず軍備拡張を続け、それは国家財政を圧迫していた。 日本は軍艦建造に、国家予算の1/3を使っていた。 軍縮が懸案となっていた。 大正11(1922)年のワシントン軍縮会議、昭和5(1930)年のロンドン軍縮会議から太平洋戦争開戦への道のりで、海軍部内で激しい派閥抗争が展開される。 堀悌吉は随員として、ワシントン軍縮会議では加藤友三郎全権(海相・大将)を補佐した。 日本は、英米に対して7割の主力艦保有を主張したが、6割に決まった。 首席随員として参加した加藤寛治中将は強硬論を主張して、加藤友三郎全権(大加藤)を困惑させた。 8年後のロンドン軍縮会議には、堀の推薦で山本が随員として参加した。 補助艦の比率は英米に対して7割は必要という艦隊派の意見が海軍部内では根強かった。 軍務局長だった堀悌吉は、英米に対しては不戦協調が望ましいという意見を持ち、会議を成立させるべきという立場で次官の山梨勝之進を補佐した(条約派)。 結局は日米の妥協が成立し、日本は対米6割9分7厘5毛でロンドン海軍軍縮条約に調印した。 この条約は海軍内部に大きな亀裂を生んだ。 艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられることになった。

 心配した山本は、海軍省トップの軍令部総長・伏見宮博恭王に、海軍人事を神聖公明に行い、堀を要職に留めるようにと、直訴する。 日本が国際連盟を脱退した昭和8(1933)年、堀は海軍中将に昇進したが、翌昭和9(1934)年艦隊派が主動したいわゆる大角人事で、予備役に編入されてしまう。

 池田清著『海軍と日本』(中公新書)を見てみる。 大角人事とは、昭和8年に海相に就任した大角岑生(みねお)大将が、条約派と目される人材はすべて海軍部内から一掃、山梨勝之進大将、谷口尚真大将、左近司政三中将、寺島健中将、坂野常善中将、そして堀悌吉中将を、予備役に編入した人事である。

 この時、堀の予備役編入をロンドンで聞いた山本五十六少将は、「かくのごとき人事が行なわるる今日の海軍に対し、これが救済のために努力するもとうてい難しと思わる。やはり山梨さんがいわるるごとく、海軍自体の慢心にたおるるの悲境にいったん陥りたる後、立て直すの外なきにあらざるやを思わしむ」と、堀に手紙を送っている。 また山本は時事通信の特派員伊藤正徳に、「堀を失ったのと大巡の一割とどちらが大事かな。とにかくあれは海軍の大バカ人事だ」と、酷評したという。 この決定をした海軍に落胆した山本は、ロンドンから帰国後、すぐ堀に会い、海軍を辞めたいと相談した。 堀は「海軍を変えられるのは君しかいない」と、山本を引きとめた。 開戦時の海相嶋田繁太郎大将(同期、32期)が戦後、「開戦前の時期に堀などが海軍大臣として在任していたとすれば、もっと適切に時局を処理していたのではないか」(『大本営海軍部連合艦隊』(1))と回想しているという。