山本五十六の遺書「述志」(1)三国同盟時2022/01/21 06:59

   山本五十六の遺書「述志」(1)三国同盟時<小人閑居日記 2014.8.23.>

 今年2月、大分県立先哲史料館で、連合艦隊司令長官・山本五十六の実像を明らかにする資料が公開された。 無二の親友堀悌吉が遺していた、山本の手紙28通や遺書「述志(じゅっし)」2通、真珠湾攻撃の作戦計画などの資料である。 「述志」2通は、昭和14(1939)年5月31日と昭和16(1941)年12月8日付けで、山本の死後開封され、堀は著書で内容を公開していたが、原本自体は不明だった。 しかし堀の孫が大分県立先哲史料館へ寄贈した堀の遺品のトランクの中から発見され、平成20(2008)年12月1日に公開された。

 番組で芳賀徹さんが、堀悌吉について語っていた。 堀は、海軍は平和の維持のためにあるとし、明治大正昭和と一貫してそうだったのは、驚くべきことである、と。 また、予備役に編入された堀が、太平洋で戦う山本を支えながらも、自身はさぞやるせない思いをしていたであろう、と。 芳賀徹さんには、「等々力短信」1000号の会でスピーチしていただいたが、堀悌吉に詳しいとは全く知らなかった。 大分県立先哲史料館で検索したら、史料館の叢書に『評伝 堀悌吉』芳賀徹他著という本があり、堀悌吉の資料集二冊があった。

 昭和11(1936)年1月、日本は堀が尽力したロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する。 昭和14(1939)年になると、日独伊三国同盟の問題が出た。 駐在や視察でアメリカの強大な国力と、長期戦になる不利を熟知していた海軍次官山本五十六は、米内光政大臣、井上成美軍務局長と共に、日米協調を唱え、日独伊三国同盟に反対した。 山本暗殺計画の噂もあり、山本はその心境を、昭和14年5月31日の「述志」に綴った。 「一死の君国に報ずるは素(もと)より武人の本懐のみ。豈(あに)戦場と銃後とを問はんや。勇戦奮闘戦場の華と散らむも易し。誰か至誠一貫俗論を排し、斃れて後已むの難きを知らむ。此身滅すべし、この志奪ふ可からず。」

 昭和14年8月、山本は政治の中枢を離れて、連合艦隊司令長官に就任した。