真珠湾攻撃とアメリカの対応2022/01/23 07:51

   真珠湾攻撃とアメリカの対応<小人閑居日記 2014.8.25.>

 昭和16(1941)年9月6日御前会議が開かれ、10月上旬までにアメリカとの交渉がまとまらなければ開戦に踏み切ると決定した。 近衛文麿首相が、「万一日米戦争の場合の見込み」と質問したところ、山本連合艦隊司令長官は「それはぜひやれといわれれば、はじめ半年か一年の間はずいぶん暴れてご覧にいれる。しかし二年、三年となればまったく確信は持てぬ」と答えて、首相に日米戦争の回避を強く要請した、と近衛の手記にあるそうだ。

 12月1日、開戦が決定された。 翌日、堀は極秘に上京して、山本に会う。 「どうした」「とうとうきまったよ」「そうか………」「ウン、万事休す。尤も若し交渉が妥結を見る様なことになれば、出動部隊はすぐ引き返す手筈はしてあるが……どうもネ」

 12月4日、堀は、呉に帰る山本を、横浜駅に送った。 別れにのぞみ握手して「ぢゃ元気で」と言うと、山本は「ありがと……もうおれは帰れんだろナ」。 これが最後の別れであった。 山本連合艦隊司令長官は、広島柱島沖の旗艦「長門」で、真珠湾攻撃の指揮を執る。

 12月8日(現地は7日の日曜日)、航空機総数350機でハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲、2回の攻撃で、戦艦8隻中4隻を撃沈、3隻を撃破した。 航空母艦が出港していて、撃滅できなかったことは、禍根となる。 攻撃が日米交渉打ち切り通告の1時間前だったため、ルーズベルト大統領は、だまし討ち、この日を「恥辱の日」として、真珠湾で捕獲した日本軍の特殊潜航艇を全米に巡回展示し、“Remember Pearl Harbor”という戦意高揚のキャンペーンを展開した。

 アメリカとその国民は、山本が期待したようには「志気を阻喪」することはなかった。 米海軍の対応は、迅速だった。 米海軍歴史遺産保存司令部には、グレーブックと呼ぶ太平洋艦隊司令部の作成した4,000枚の報告書が保管されている。 真珠湾への日本の攻撃を分析し、その作戦計画、空からの攻撃の卓越していると評価している。 ルーズベルト大統領は、米海軍で28番目の序列だったチェスター・ミニッツを太平洋艦隊司令長官、大将に抜擢した。 日本の海軍が、終始海軍兵学校の席次(ハンモック・ナンバー)を重視したのと対照的な人事だ。