福沢の官民調和論の起源2022/01/31 07:09

 『福澤諭吉全集緒言』「分権論以下」(『福沢諭吉選集』第12巻202頁)に、自分の官民調和論は、明治10年刊行の『分権論』でも、明治15年からの『時事新報』論説でもなく、それより前からあった、とある。 明治7、8年の頃だったか、大久保利通内務卿、伊藤博文と三者会談で、「余の説に、政府は固く政権を執り、時としては圧制の譏(そしり)も恐るゝに足らずと度胸を極めながら、一方に、民間の物論は決して侮るべからず云々と話したることあり。」 又それ以前の明治初年に鮫島尚信宅で大久保と話した、「大久保氏の云ふに、天下流行の民権論も宜(よろ)し、左れども、人民が政府に向て権利を争へば、又之に伴ふ義務もなかる可らず云々と述べしは、暗に余を目して民権論者の首魁(しゅかい)と認めたるものゝ如し。」

 「依(よっ)て余は之に答へ、権利義務の高説よく了解せり、抑(そもそ)も自分が民権云々を論ずるは、政府の政権を妨ぐるに非ず、元来、国民の権利には政権と人権と二様の別あり、自分は生れ付き政事に不案内なれば、政事は政府にて宜しきやう処理せらる可し、唯人権の一段に至りては、決して仮(か)す可らず、政府の官吏輩が、馬鹿に威張りて平民を軽蔑し、封建時代の武家が百姓町人を視るが如くにして、人生至重の名誉を害するのみならず、其実利益をも犯さんとするが如き、万々是に甘んずるを得ず、左れば自分の争ふ所は、唯人権の一方のみなれども、今後、歳月を経るに従ひ、世に政権論も持上りて、遂には蜂の巣を突き毀したるが如き有様になるやも計られず、其時こそ御覧あれ、福沢は決して其蜂の仲間に這入(はいり)て飛揚を共にせざるのみか、今日君が民権家と鑑定を附けられたる福沢が、却(かえっ)て着実なる人物となりて、君等の為めに、却て頼母しく思はるゝ場合もある可し、幾重にも安心あれと、恰(あたか)も約束したることあり。」

 「政府の虚威を廃して、官吏の態度を改むると共に、国務の為政権を当局者に一任して、自由自在に運動せしめ、人民も亦(また)、深く文明の教育に志して政治思想を養ひ、政府と相対して、譲る所なく、共に国事を分担して国運万歳ならんことを祈るのみ。」

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