秋丸機関「幻の報告書」、国力の差は承知していた2022/01/11 07:22

 子供の頃、日本は超大国アメリカを相手に何と無謀な戦争をしたものだ、大人たちは何でみんな反対しなかったのだろう、と疑問に思っていた。 「1941日本はなぜ開戦したのか」で、初めて知ったのは1941(昭和16)年7月の陸軍秋丸次朗機関「陸軍省戦争経済研究班」の報告書のことだった。 大学の経済や統計の学者、少壮官僚や満鉄調査部から人を集めていて、有沢広巳、武村忠雄、中山伊知郎、蝋山政道などは、私も名前を知っていた。 彼我の圧倒的な国力の差は、皆、承知していたのだ。 「20対1」と、後に秋丸老人自身が語っている映像が印象的だった。

 解説に登場した声のいい(私の知らなかった)牧野邦昭慶應義塾大学経済学部教授(経済思想史)に、『経済学者たちの日米開戦 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書)という本があるそうだ。 番組は、大東文化大学図書館に所蔵されている「英米合作経済抗戦力調査」其一、其二、「英米合作経済抗戦力戦略点検討表」を見せた。

 国力の差が直視されなかったのは、情報、データを使って判断したり、決定するという意識が希薄だった。 中野信子さんは、答があって無いような課題を与えられた時、適切に解けるか疑問、今の教育でもなされていない、同じ状況が来た時に、果たして私たちは適切に対処できるか疑問だとする。 真山仁さんは、データが好きなのは調子のいい時だけ、大逆転こそ日本人の底力、0.1%の可能性にも賭ける、負けと言えない神の国、理性とロジックが突然反転する、説得するために嘘のデータを出す(今のさまざまなメーカーのように)、と。 一ノ瀬俊也さんは、船舶を沈められる数のシミュレーションもしているけれど、甘い(馬場註 : 関連で、大佛次郎賞、堀川恵子さんの『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』が興味深い)。 いろんな会議を積み重ねて既定路線を作るのが、決定のやり方で、不利なデータが入ってきても、ひっくり返せない、と。

 北進は消耗戦争になる。 資源を求めて、南へ行こうという積極的な「南進論」、ドイツがフランス、オランダに代わる前に植民地を確保しよう、ということになった。

 1937(昭和12)年からの4年間の中国との戦争に沢山のお金と人命をつぎ込んでいる。 中野信子さんは、「サンクコスト」(回収できない費用、埋没費用)を回収したい、裁量権のある人は、国民の支持を得ている、ここで中止することができない、「プロスペクト理論」、勝っている時は慎重に出来るが、負けが込んで来ると大胆になる現象がある、という。

天皇の反対にもかかわらず「対米交渉期限を設定」2022/01/12 06:59

分岐点[4]は9月6日、「対米交渉期限を設定」。 以前、私は『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文藝春秋・1991年)によって、9月6日の御前会議についての昭和天皇の証言を書いていた。 昭和天皇は、「二・二六事件(昭和11(1936)年)と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた。」と語っている。 開戦については、そうではなかったことになる。 「九月五日午後五時頃近衛(文麿首相)が来て明日開かれる御前会議の案を見せた。之を見ると意外にも第一に戦争の決意、第二に対米交渉の継続、第三に十月上旬頃に至るも交渉の纏らざる場合は開戦を決意すとなつてゐる。之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云つて承知しなかつた。」「私は軍が斯様に出師準備を進めてゐるとは思つて居なかつた。」

 「翌日の会議の席上で、原(嘉道)枢密院議長の質問に対し及川(古志郎軍令部総長)(馬場註・永野修身軍令部総長か?)が第一と第二とは軽重の順序を表はしてゐるのではないと説明したが、之は詭弁だ、と思ふ。然し近衛も、五日の晩は一晩考へたらしく翌朝会議の前、木戸(幸一内大臣)の処にやって来て、私に会議の席上、一同に平和で事を進める様諭して貰ひ度いとの事であつた。それで私は豫め明治天皇の四方の海の御製を懐中にして、会議に臨み、席上之を読んだ。」 明治天皇の御製は、<四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさはぐらむ>。

 そこで、9月6日の御前会議。 まだ開戦には後ろ向きの天皇を、永野修身軍令部総長は、「大坂夏の陣」の話を持ち出して、七、八割方は勝利の可能性のある緒戦の大勝に賭ける早期開戦を説く。 「帝国は自存自衛を全うする為対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と決定する。

沸騰する世論に、反対意見を言えなくなる2022/01/13 06:59

 それでもまだ、近衛首相は、ルーズベルト大統領との首脳会談に望みをつないでいた。 薮中三十二さんは、唯一のチャンスだったかもしれない、と。 しかし10月2日、首脳会談は拒否され、10月6日に近衛文麿が内閣を投げ出す。

 陸海軍統帥部の思惑。 陸軍は、アメリカとの戦争は海軍の仕事とする、陸軍と海軍のセクショナリズムがあった。 下の作戦の都合で日程を決めて、上に何とかしてくれという状況。 中野信子さんは、「先延ばし」の遺伝率は高く46%、生き延びられやすい家の人、貴族(近衛文麿首相)が決断をさせられるのは、国際社会の文脈とはかなり違う、と。

 重要だと思ったのは、新聞と世論の動向だ。 ナチスドイツがイギリスに勝ち、アメリカがヨーロッパ戦線にかかりきりになる、日独伊三国同盟・ソ連との中立条約、海軍の戦力は対米7割、緒戦で叩けばアメリカは戦意を喪失する、など楽観的見通しが積み重なった。 陸軍には、既に4年間戦っている中国からの撤兵は出来なかった。 軍部の煽った新聞などにより、英米に反発して沸騰した世論の国際状況把握に、反対意見を言うことが出来なくなり、引きずられることになった。

 中野信子さんは「コンフリクトセオリー」、同じ集団を二つの集団に分け、対立させるのに五日あれば十分、それほど人間というのは戦争を望む生物だ。 為政者が煽ると、短期的にはよくても、長期的に見たら、その形で国を維持するのは大変だ、と。 真山仁さんは、世論イコール正義になった時が危険、もともと空気を読む国だから、コロナの自粛警察のように、正義に至るまでは冷静、そこに妙な圧がかかると、理性が消えて感情的になると、怪物になってしまう。 薮中三十二さんは、そういう世論の中で、説得するのは困難になる、と。

東條英機内閣で開戦へ2022/01/14 07:08

分岐点[5]は11月1日、「激論!開戦か、交渉継続か」。 高まる戦争熱に、天皇の意志はまだ戦争回避で、それを体した木戸幸一内相が重臣会議で陸軍を抑えるため敢て東條英機を総理大臣に推す。 天皇は「9月6日の決定を白紙に戻し再検討せよ」と指示した。

東條内閣は、まず国策の再検討に、大本営政府連絡会議を10月24日から11月1日まで計7回、開く。 外相が東郷茂徳、蔵相に賀屋興宣、海相には嶋田繁太郎が新しく加わった。 東條は結論としての三案を示した。 (1)戦争を避けての臥薪嘗胆、(2)直ちに戦争を決意、戦争により解決、(3)戦争決意のもとに戦争準備と外交を並行。 天皇の意に沿うように項目を並べてはいるが、東條の本心が(2)であることは、国策再検討会議の流れの中でより鮮明になっていた。

解説コメントの牧野邦昭教授は、(2)案について、石油が無くなるというネガティブなエビデンス、客観的なものがあるのに、0.1%の成功可能性が10%とか主観的に過大評価されてしまう、と。 東郷外相と賀屋蔵相は、アメリカから仕掛けてくることはないので、外交交渉を続けることを主張し、東條首相は(3)案で統帥部を説得し、12月1日まで交渉と決める。 東郷外相は、南部仏印からの撤退を提案したが、薮中三十二さんは、中国からの撤兵を出せずtoo little,too lateだ、と。 軍部の杉山元参謀総長は、日中和平交渉にアメリカが介入しない条件をつけて、この案を骨抜きにした。

11月5日の御前会議は、大東亜新秩序建設の為、対英米蘭戦争を決意し、武力発動の時期を12月初旬と決定した。

戦争回避の奇策、不発に終わる2022/01/15 07:09

 分岐点[6]は11月26日、戦争回避の策動があった。 幣原喜重郎の提案で、吉田茂が中心となって極秘に行動し、重臣(元首相)を宮中に呼んで意見を聞くことを画策した。 東條首相は、重臣には責任がないと反対したが、11月29日に重臣を宮中に集めることになった。 しかし11月27日、「ハル・ノート」が届く。 大陸・仏印からの全面撤退、三国同盟からの離脱など、アメリカの原則論を変わらずに主張していた。 東條首相と統帥部は、外交交渉を否定するアメリカの最後通牒だと判断した。

 それでも11月29日、重臣たちが宮中に参集した。 東條首相が経過を長時間説明し、東郷外相も「ハル・ノート」で外交交渉が困難になったことを話した。 重臣からは、開戦への危惧がもれた。 岡田啓介は物資の輸送の懸念、近衛文麿は外交交渉が困難でも開戦は避けられないか、米内光政は有名な「ヂリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう十分のご注意を願いたい」と、言った。 東條首相はそれぞれに反駁し、戦争回避の最後の一手は、不発に終わった。

 12月1日の御前会議で、対米戦争の開戦が決定。 12月8日の真珠湾攻撃となった。

 「1941日本はなぜ開戦したのか」。 中野信子さん、本来の敵は「貧困」、テクノロジーがなかったりでの「貧困」、臥薪嘗胆の先を示すべきで、声をあげる人が出て、そこに向かって戦うべきだった。 小谷賢さん、決められない政治、問題の先送り、世論の影響など、今に通じることを学ぶ必要がある。 薮中三十二さん、平和を作るのは日本、外交をきちんとやること。 真山仁さん、自分は昭和30年代生まれだが、親たちは「戦前の体制が残らず、負けてよかった」と言っていた。 一ノ瀬俊也さん、昭和初期からの「貧困」の解決のために、大陸進出、資源を求めることになった。 平和主義と言論の自由が大切。 ここで、永井荷風『断腸亭日乗』の予見を高く評価し荷風はタダ者でないとした(それは、明日書く)。 そして杉浦友紀アナが珍しく、80年はすぐ前のこと、今のわれわれの問題だと、まとめた。