2021年「小人閑居日記」で取り上げた本など(10月~12月) ― 2022/01/06 07:07
山内慶太「慶應義塾塾歌」の謎、歌詞に込められた意味 10月3日・4日 小泉信三の富田正文に対する深い信頼 小幡甚三郎と独立の気力 10月15日・16日 軍部とその周辺の圧力から、慶應義塾を守り抜く 10月17日
佐伯啓思「異論のススメ」(朝日新聞)『文明論之概略』引用 今、将来を見渡せる大きな文明論が必要 10月5日・6日
NHK大河ドラマ『青天を衝け』と福沢の『西洋事情』 10月7日
「日本料理 桜丘」のランチ「かさね弁当」 10月8日
NHK BSプレミアム「シーボルト 花物語~知られざるプラント・ハンター」シーボルトが持ち帰った植物、ヨーロッパに園芸ブーム 情報収集 「シーボルト商会」 10月9日~11日
柳家小三治さんを悼む(小三治関係拙稿一覧) 小三治「長屋の花見」の季節 「まくら」「国立印刷局」の秘密 10月12日~14日
「柿」と「うそ寒」の句会 10月18日
NHK朝ドラ『おかえりモネ』 ETV特集「カキと森と長靴と」 カキの海の再生に森に木を植えた人 巨大津波の後も海は甦った、何十億年と続く自然 10月19日・20日
真鍋淑郎さん宅のもう一枚の額の詩(天声人語) 10月21日
NHK『歴史探偵』「写楽 大江戸ミステリー」 消えた写楽がヨーロッパでブームになり逆輸入 10月22日・23日(7月8日~も)
志摩泰子随筆集『藍の色』 藍と浮世絵の「青」の色 10月24日 写楽、阿波徳島藩主蜂須賀重喜公説 10月25日
山口一夫「福沢諭吉とシーボルト」(『福澤手帖』62号(平成元年9月20日))長崎の擦れ違い 10月26日 老野心家シーボルト、一時幕府顧問に 10月27日 文久遣欧使節を訪ねて来たシーボルトの妻子 富田正文『考証 福澤諭吉』(岩波書店) 10月28日 福沢諭吉とシーボルトの娘イネ 『福澤諭吉書簡集』第一巻、書簡番号149・杉孫七郎宛 10月29日 小幡英之助を天皇の主治歯科医に 『福澤諭吉書簡集』第二巻、書簡番号231・杉孫七郎宛 10月30日 福沢諭吉と杉浦愛蔵、高橋順益 『福澤諭吉書簡集』第一巻、書簡番号24・南条公健宛 10月31日
クイズ「この文章読めますか?」と「答」 11月1日・2日
吉田善彦の淡く柔らかな絵に魅入る 山種美術館「速水御舟と吉田善彦―師弟による超絶技巧の競演―」展 11月3日
池澤夏樹『また会う日まで』(朝日新聞連載) 「大東亜中央病院」(聖路加病院)の日野原重明先生 東京大空襲の朝 聖路加病院は「米国より日本への賜物」ビラ 11月4日~7日
37年目の訂正・上田保先生は上田敏の子ではなかった 上田保先生に文学の楽しみを教わる 「等々力短信」第318号「ボディー・ブロー」(昭和59(1984)年4月15日) 11月8日・9日
井上靖の自伝的映画『わが母の記』 曽祖父の妾で祖母として入籍したおかのに育てられる 井上靖短篇名作集『補陀落渡海記』(講談社文芸文庫)「グウドルさんの手套」 それは、なぜか 「養之如春」これを養うや春の如し おかの婆さんとグウドルさんの手套 映画『わが母の記』の結末 11月10日~15日
私の祖母も芸者で、医者の妾 11月16日 祖母、駿河台の井上眼科へ挨拶に 11月17日 日本初の眼科女医、右田(みぎた)アサ(医学雑誌『ミクロスコピア』(考古堂書店)2008年夏号) 北区田端大龍寺の「女醫右田朝子之碑」 11月18日・19日 漱石の初恋の人?と井上眼科病院 『漱石研究年表』の井上眼科一件 問題の、漱石の子規宛書簡 11月20日~22日
「初冬」と「紅葉散る」の句会 11月23日
久しぶり「三田あるこう会」碑文谷散策 「円融寺」と「槍の笹崎」 打たれても前へ前へ出る男 アンプルの需要が盛んだった頃 碑文谷の工場のその後 “フジヤマのトビウオ”の近所で 11月24日~29日
枇杷の会・大磯鴫立庵、松本順の墓 鴫立庵周辺を吟行 俳諧道場・鴫立庵での句会 『夏潮』季題ばなし「海水浴」「虎ヶ雨」 “湘南”の名称発祥の地「鴫立庵」11月30日~12月5日
『青春スクロール 母校群像記』「慶應志木高校」(朝日新聞埼玉版) 「自我作古」「独立自尊」の伝統 「慶應義塾志木高新聞」百年祭記念号 12月6日~8日
福澤諭吉協会土曜セミナー、大島正太郎「日米関係事始め~1850年代、60年代の両国関係~」 ペリーを日本に派遣した大統領 慶応3(1867)年、軍艦受取委員の実相 南北対立、フィルモアの「1850年の妥協」で安定、日本開国を追及へ 日本開国、フィルモア大統領とペリー 日米ともに、近代化の「生みの苦しみ」 12月9日~13日
「三田あるこう会」大宮盆栽村散策 JR湘南新宿ライン宇都宮線で大宮へ 北沢楽天のさいたま市立漫画会館 福沢と北沢楽天(清水勲さんの「福沢諭吉と漫画」再録) 北沢楽天デビュー政治漫画の発見(北沢楽天顕彰会会報『らくてん』第59号(2020年3月1日)) 12月14日~17日
飯沢匡『武器としての笑い』(岩波新書・1977(昭和52)年)「知られざる福沢諭吉」 福沢の「ちんわん之(の)説」 宣伝絵画の嚆矢―伝単「北京夢枕」福沢諭吉の「漫言」とは何か(遠藤利國講演「<漫言>はなぜ書かれたか」) 「漫言」の「笑い」は文明開化の有力な武器 「漫言」は、なぜ書かれたか 福沢諭吉のジョークの鼓吹―『開口笑話』 12月18日~24日
「冬芽」と「行く年」の句会 12月25日
NHK大河ドラマ『青天を衝け』関連 動物学志望、渋沢敬三と北杜夫 渋沢栄一が孫敬三を二代目とした事情 自作小冊子『渋沢敬三という人』実業と学問と 「もの」に注目した常民文化の研究 アイディアとチームワーク 戦後日本の再建に果した役割と人柄 12月26日~31日
「なぜ写真には笑顔で写るのか?」 ― 2022/01/07 07:12
12月24日放送の『チコちゃんに叱られる』に、「なぜ写真には笑顔で写るのか?」というのがあって、岩井茂樹大阪大学教授が解説していた(2020年の論文「「笑う写真」の誕生」で発表)。 答は「ニコニコ主義があったから」。 明治時代の終わり、明治37年頃からは、日露戦争や大逆事件などがあり、日本が暗くなった時代だった。
明治44年、不動貯金銀行頭取牧野元次郎(もとじろう)が、月刊雑誌『ニコニコ』を出し、ニコニコ倶楽部をつくり、ニコニコ主義を広めた。 「世の中のことはすべてニコニコ的に解決する平和も成功もみなこのニコニコ主義より生ずるものと信じる」。 牧野元次郎は有名財界人や政治家にも賛同を求め、会合に押しかけては「笑う写真」を撮った。 不動貯金銀行でも『ニコニコ』を販売、一定の貯金をした人には無料で配った。 当時最高の発行部数だった『婦人世界』が8万部、『ニコニコ』は7万部。 不動貯金銀行は、今の、りそな銀行につながるという。 もう一つ、露光時間が、初期の2分から数秒になったことも、「笑う写真」に効果があった。
実は、私は「等々力短信」に「笑う写真」について、日本人で初めて笑顔の写真を撮られた人を探して、二回書いていた。
笑顔の写真<等々力短信 第638号 1993(平成5).6.5.>(笑顔の写真〔昔、書いた福沢62〕<小人閑居日記 2019.5.28.>)
「笑顔の写真」その後<等々力短信 第652号 1993(平成5).10.25.>(「笑顔の写真」その後〔昔、書いた福沢63〕<小人閑居日記 2019.5.29.>)
そこでは中岡慎太郎が、歯を見せて、豪快に笑っているのを発見していた。 中岡慎太郎は1867(慶應3)年11月15日に、坂本龍馬と一緒に京都で斬られたから、この笑顔は少なくとも慶應年間のそれということになる。 外国の初期の写真にも笑顔はないので、写真の実用化から、日本渡来までたったの9年、日本人初は世界初かもしれない、とも書いていた。
「1941日本はなぜ開戦したのか」「日米諒解案」 ― 2022/01/08 07:13
NHK総合12月8日放送の「昭和の選択スペシャル」「1941日本はなぜ開戦したのか」の録画を見た。 12月8日は真珠湾攻撃80年の日、1941(昭和16)年生まれの私も80歳、紘二の「紘」は「八紘一宇」の「紘」なのだ。
出席者、薮中三十二(元外務事務次官)、真山仁(作家)、小谷賢(日大危機管理学部教授)、一ノ瀬俊也(埼玉大学教養学部教授、『断腸亭日乗』で永井荷風が国際情勢や国内状況を的確につかんでいるのを高く評価)、中野信子(東日本国際大学特任教授)、杉浦友紀アナ。 解説コメントは、井上寿一(学習院大学法学部教授)、牧野邦昭(慶應義塾大学経済学部教授・経済思想史)。
番組では、1941(昭和16)年、日米開戦に至った幾つかの分岐点を挙げて、検討した。 分岐点[1]は5月3日、松岡洋右外相のオーラル・ステートメント。 1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件で始まった日中戦争は4年目に入り泥沼化していた。 中国における日米の経済的利害の対立から戦争が現実のものとなり、戦争回避の日米交渉が4月に始まった。 野村吉三郎駐米大使が、ハル国務長官に日米の私人(司祭、神父、軍人、民間人)が作成した「日米諒解案」を示した。 日中間の協定による日本軍の中国からの撤退、中国の独立尊重、日米間貿易の通常状態への回復などだが、アメリカが満州国を承認すると受け取れるような内容が含まれていた。
これに対し、4月16日、ハル国務長官から野村吉三郎大使に次の「四原則」が示されたが、野村大使はそれを本省に報告しなかった。 1. 全ての国家の領土の保全と主権を尊重すること、2. 国家の内政に干渉しないこと、3. 特定の国で商工業を行う機会均等、 4. 太平洋地域の現在の状態を変更しない。
松岡洋右外相は、「日米諒解案」にあるアメリカが満州国を承認するような内容は甘すぎると感じて、反発、5月3日、「日米諒解案」に否定的な日独伊三国同盟の重要性を謳うオーラル・ステートメントを発表した。 松岡はアメリカ留学の体験があり、アメリカ人に不信を抱いていた。
アメリカも、松岡外相の内は日本は三国同盟から抜け出せないと判断した。 6月になってハル国務長官が改めて「四原則」にもとづく立場を表明し、「日米諒解案」は泡のように消えた。
南進か北進か、「対英米戦を辞せず」 ― 2022/01/09 08:14
「1941日本はなぜ開戦したのか」分岐点[2]は7月2日。 6月22日、突如ドイツ軍が、資源と農地を求めて、ソ連に侵攻した。 突如勃発した独ソ戦への対応をどうするか、政府と軍部は大騒ぎになった。 日本はドイツとは前年の1940(昭和15)年9月に三国同盟を結んでいる同盟国であり、ソ連とはわずか2か月前の4月に松岡洋右外相がモスクワで日ソ中立条約を結んだばかりだったからだ。
松岡外相は、態度を一変させ、ドイツに呼応して背後からソ連に攻め込もうとする「北進論」を唱え、陸軍参謀本部もそれに同調した。 一方陸軍を束ねる陸軍大臣東條英機は、南部仏印に進駐し、油田地帯のオランダ領東インドへの足掛かりとする「南進論」を主張した。
7月2日、御前会議。 6月25日の大本営政府連絡懇談会で決定した「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」の原案を正式に決定。 「帝国は依然支那事変処理に邁進し、且(かつ)自存自衛の基礎を確立する南方進出の歩を進め、又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」と「南進論」「北進論」の両論を併記する形で、対英米戦争の準備と対ソ戦準備の推進を明記した。 同時に大本営は、関東軍野戦演習の名で関東軍に合計70万人の兵力を集中動員した(関特演)。 この国策要綱には、「南方進出の態勢を強化す」に続いて、「帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず」との重大な一行が書かれていた。
中野信子さんは、「予言の自己成就」、レトリックだったものが本当になってしまうことがある、と指摘した。
「南部仏印進駐の誤算」 ― 2022/01/10 07:13
分岐点[3]は7月28日、「南部仏印進駐の誤算」。 これより先、第二次世界大戦の緒戦、ドイツが破竹の勢いでヨーロッパを席巻、1940年6月にはフランスのパリを占領、7月には対独協力のヴィシー政府が成立した。 北部仏印の宗主国フランスの政府は、日本とは防共協定(1936年に締結)で結ばれたドイツの傀儡政権だったので、1940年9月23日、日本軍は北部仏印に進駐していた。
南進派は、南部仏印に進駐といってもフランス領内の移動に過ぎないとして、アメリカが強い報復措置に出ることはないだろうと、考えていた。 しかし、アメリカは7月25日には在米日本資産の凍結を断行し、8月1日には石油の対日全面禁輸を実行したのだ。 これは日本側の想像を超えた強硬な措置だった。 資産凍結が日本経済に打撃を与えるのは確実であり、何よりも、使用量の9割までをアメリカからの輸入に頼っていた石油が全面禁輸となっては、戦争継続はおろか、日本の民間産業や国民生活そのものまで早晩たちゆかなくなるからだ。 その衝撃は甚大で、石油を断たれて追い詰められる前に起つべきだ、アメリカとの戦争を始めるべきだという早期開戦論が、軍部はもとより国民の間にも満ちてくる。
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