「政府は人望を収むるの策を講ず可し」と結論2022/02/01 07:16

 この大久保との会見は、『大久保利通日記』によれば明治9年2月27日のことで、大久保・伊藤との三者会談は、それより後のことと考えられる。 福沢の明治8年9月からの「覚書」というメモ帳で、『学者安心論』の脱稿は明治9年2月19日とわかっている(『福沢諭吉選集』第12巻13頁)。 『学者安心論』は、政府と人民の役割分担だった。 「明治7、8年の頃」と福沢がしたのは、記憶の混同であって、明治7年1月の『学問のすゝめ』第四編「学者の職分を論ず」の議論が頭にあったからではないか、と平石さんは考える。

 明治7、8年は、福沢が民会設立をプッシュしていた時期で、官民調和論の起源とするのは適当でない。 平石さんは仮説だが、全集の編者が「政府は人望を収むるの策を講ず可し」(『福澤諭吉全集』第20巻156頁)と名付けた明治9年3月の廃刀令を先日とした論考は、福沢が大久保・伊藤との三者会談のために用意したメモではないか、とする。 政府に助言している内容で、薩長土肥の独占を廃して適材適所、公平を期し、上等社会の学者流を採用せよ。 軍事、裁判、租税だけを政府がやればよい、政府が民間がやるべき事業に手を出し過ぎる。 内務省の強大、勧業、大蔵省は為替を一手に、工部省の学校や警察の建築など。 政府主導の文明開化はやめなさい、人民の領分を残して自由に働かせれば、官途に熱中奔走する者も減り、官私の不和も止まるだろう。 言論の自由は大事だ、讒謗律、新聞条例を撤廃して、新聞雑誌の衆議輿論の力を借り、間接的に政府を助けて国安を謀るほうがいい。

 「政府は人望を収むるの策を講ず可し」は、大筋で『学者安心論』と一致しており、ワンセットのものと考えられる。 政府と人民は、両者が協力して、わが国の独立と文明化を進めるべきだ、としている。

「ひょうそ」瘭疽、化膿性爪周囲炎2022/02/02 07:15

 右手の中指に痛みを感じたのは1月12日(水)だった。 箸を持つと当たるので、食事の時に痛くて、食べづらい。 指一本の具合がちょっと悪いだけでも、大変不自由だということがわかる。 少し前、小指が痛くなったことがあった。 爪を切ったあと、小指の爪の隅にささくれのようなものが出来、ひっぱって取った。 すると、小指が痛くなったのだが、放っておくと二、三日で治ってしまった。 中指の痛みも、たしか爪を切ったあとだったので、同じように治るのだろうと思っていた。

しかし、だんだん赤く腫れて、寝ていてもズキズキ感じるようになった。 何といっても、箸で食べづらいのが、困る。 二日ばかり我慢していたが、どうにも耐え難い。

 子供の頃、「ひょうそう」という言葉を聞いていたのが、頭に浮かんだ。 ネットを検索する。 「ひょうそ」瘭疽、化膿性爪周囲炎…「手指・足指の化膿性炎症。疼痛が甚だしく、深部に進行して骨に波及する傾向がつよく、しばしば壊疽(えそ)を来す。」とある。 瘭疽の「瘭」の字は初めて見たが、同じ「疽」の字のつく「壊疽」ならエノケンが足を切断した頃から聞いていて、恐ろしい。

 治療法は皮膚科を受診して膿を出してもらうとあったので、1月15日(土)に、12月の「等々力短信」1150号「コロナすき間日誌」に書いた、Mスキンケアクリニックに行く。 何と言っても、近いのが有難い。 いつもコピーを取るコンビニの手前にある。 コンビニよりコンビニな皮膚科だ。 前にカーディガンのボタンを留めてくれた女医さんが、太い針のようなもので突き、ギュッと膿を押出し、抗生物質入りの軟膏を塗り、その軟膏と抗生物質の薬を処方してくれた。 17日(月)に経過を診てもらい、残りの膿を出す。 21日(金)再診、中指先端の皮が白くなって一枚剥け、ほぼ痛みは消え、赤みだけになる。 28日(金)、当初採取した膿の病理検査の結果、ごく普通の菌という、黄色ブドウ球菌が原因だったと判明した。

高橋三千綱さんが亡くなっていた2022/02/03 07:02

 2021年4月21日の<小人閑居日記>に、「高橋三千綱さん「帰ってきたガン患者」最終回」を書いた、高橋三千綱さんが亡くなっていたことを、2日朝、朝日新聞朝刊一面ののサンヤツ広告で知った。 高橋三千綱『枳殻家の末娘』(青志社)の「枳殻」が読めず、フリガナを見て、そうか「からたち」だったか、と思った。 キャッチフレーズは、「これは発酵した性愛、身を焦がす恋愛小説」、「五木寛之さん、山口瞳さんがほめた幻の官能文芸作品を単行本化!」

 その左に、小さな活字で「文句なしに面白いエンターテインメント」である。かような佳品が没後に再び陽の目を見ること自体を、一読者として大いに喜びたい。(西村賢太・小説家)」と、あったのだ。

 「没後」!!、知らなかった。 「高橋三千綱」で検索する。 2021年8月17日、八王子の自宅で、肝硬変と食道がんのため死去、73歳、とあった。 新聞の訃報は、こちらの年齢が年齢なので、たいてい目を通し、年齢や病名を確認する。 高橋三千綱さんは見過ごしていた。 岩波書店『図書』の編集後記「こぼればなし」にも出たのだろうが、気づかなかった。

 昨年4月21日の「高橋三千綱さん「帰ってきたガン患者」最終回」には、『図書』に断続的に連載されてきた「帰ってきたガン患者」から、それまで2020年10月と2021年1月の<小人閑居日記>に7回も書いてきたリストをつけていた。

朝井まかて『ボタニカ』、日本植物学の父、牧野富太郎伝2022/02/04 07:03

 子供の頃、植物のことと言えば牧野富太郎だと聞いていて、『学生版 牧野日本植物図鑑』を持っていた。 朝井まかてさんの長編小説『ボタニカ』(祥伝社)を読んだ。 日本植物学の父、牧野富太郎、愛すべき天才の情熱と波乱の生涯を綴った494ページの大冊である。 まず、腰巻文学を引く。

 「ただひたすら植物を愛し、その採集と研究、分類に無我夢中。 莫大な借金、学界との軋轢もなんのその。 すべては「なんとかなるろう!」 明治初期の土佐・佐川(さかわ)の山中に、草花に話しかける少年がいた。 名は牧野富太郎。 「おまんの、まことの名ぁ知りたい」、「おまんのことを、世界に披露目しちゃるきね」。 小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相(フロラ)を明らかにする」ことを志し、上京。 東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。 私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた……。 貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種(ボタニカ)を究め続けた、稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。 朝井まかての新たなる傑作がここに!」

 牧野富太郎は、文久2年4月24日(1862年5月22日)、佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の造り酒屋で、藩の御用を務めて名字帯刀を許され、荒物・小間物も商う「岸屋」という屋号の裕福な家に生まれた。 幼名は誠太郎、ものごころつかぬ内に両親を亡くし、7歳で富太郎と改名、祖母の浪に育てられた。 家業は祖母が大女将で奥を取り仕切り、商いは番頭の竹蔵が差配していた。 手習塾で学び、明治6年数え12歳で目細谷の、「佐川山分(さんぶん・山が多い意)、学者あり」といわれた伊藤蘭林の伊藤塾に通った。 蘭林のすすめで、藩校名教(めいこう)館が名教義塾となったのに進み、明治5年の「学制」で、明治7年に名教義塾から代わった小学校に入学した。 祖母は、富太郎の従妹で両親を喪った慶応元年生まれ(三つ下)のお猶を、牧野家に引き取った。

 しかし、小学校に1年通って14歳、授業は知っていることばかり、唯一の愉しみは一枚ものの「博物図」、夢中になって植物学の入門の階梯となったものだけで、15歳になって小学校を退学した。 実は前年冬から名教義塾の英学教授だった茨木先生が小学校の教員らに学問を授けている伝習所に行っていた。 番頭の竹蔵は、富太郎が伊藤塾、名教義塾や小学校を終えるたびに、家業に入ることを期待したけれど、「植学を志す」「学問は一生、いや二生あっても足りん。わしには究めたいことがようけある」。 福沢諭吉先生の『学問のすゝめ』、『英和対訳袖珍辞書』、『和訳英辞書』、ペンシル、ルウペ、蒔絵の筆などなど、取り寄せる鳥羽屋への去年の大節季(おおせっき)の払いは、手代らの一年分の俸給に負けず劣らずだった。

「ボタニカ」の歴史、シイボルトの弟子伊藤圭介2022/02/05 07:16

 牧野富太郎は、佐川小学校中退にもかかわらず、明治10年、佐川小学校の校長に頼まれて臨時雇いの教員「授業生」になる。 月俸3円、山ほどもある買いたい本が買える。 毎日、野山を植物採集で歩き回る。 画帖や採草道具は頭陀袋に入れ肩から斜め掛けにし、根から掘り取る木製の特注大匙、小桶に油紙や麻紐、風呂敷、洋物屋から購った西洋のブリキ製の大中小の箱、これが歩くたびにガチャガチャ鳴るので、小学校の生徒は陰で「轡虫(くつわむし)」と呼んでいるらしい。 五つ下の友人克禮(かつひろ)の父、堀見久庵は医者で夥しい書物を持っていた。 土佐で漢方医学を、大坂で緒方郁蔵に産科、緒方洪庵に内科、華岡青洲の合水堂で外科と眼科を修めた。 富太郎に、宇田川榕菴の『菩多尼訶経(ボタニカきょう)』(『植学啓原』より古い文政5年板行)、「ボタニカ」とは植学、リンネの植物分類法、植物の学問を植学という言葉で表したのも榕菴、50数年前の仕事だと教えた。 さらに「ボタニカ」には、もっと広く大きなもの、生きとし生けるものの世界、という意味がある、とも教えた。

 明治12年春、富太郎は小学校の授業生を辞め、高知に出て五松学舎という私塾に入る。 市中の書肆で、岩崎灌園の『本草図譜』のうち、山草の類の筆彩写本を入手し、精密な画に見入り、模写した。 その本屋で、先に『本草図譜』を富太郎に買われて口惜しがる高知中学校教師、永沼小一郎と知り合う。 永沼は、植学を志しているなら西洋の書物を原書で読むべきだ、サイエンスも広く識るべし、という。 今から百年以上前にリンネが学名というものを提唱した、世界共通の学名があれば、仲間かどうかの分類、体系化が図れる。 目の前の植物が何者であるか、もし無名の新種だったら、名を付け、世間にお披露目できる。

 近代の植学は、リンネから始まり、その弟子のツュンベリイという学者が安永(百年ほど前)の頃、来日してわが国の植物を採集して、帰国後『フロラ・ヤポニカ』(『日本植物誌』)という書物を著した。 それを愛読して、来日時に持参したのが、かのシイボルト、日本人の弟子の一人と共に、『フロラ・ヤポニカ』に収録された日本の植物を調査して、和名を探す研究をした。 シイボルトは例の事件で帰国したが、その弟子は後に『泰西本草名疏(めいそ)』を刊行、附録にリンネが定めた植物分類体系を花の解剖図を添えて紹介した。 リンネは雄蕊と雌蕊の数で植物を分類したからだが、彼はその訳語も作ったのだ、雄花、雌花、花粉もだ。 富太郎は、その弟子は洋学者の伊藤圭介か、と聞く。 本草学者、博物学者の伊藤圭介、今も健在で、東京大学理学部で員外教授、附属の小石川植物園を担当している、と永沼。

 明治14年、数え20歳の富太郎、相も変わらず山野を歩き、雨の日は蔵の二階に籠もって採取した植物の整理や描画、読書と写本に明け暮れている。 祖母に、東京は上野の内国勧業博覧会に行く、堀見久庵・克禮の縁続きの大地主、慶應義塾に学んだ堀見熈助(てるすけ)が園芸館に出品した佐川の一歳桃と若樹桜(ワカキノサクラ)が褒状を受けたのでと言い、いつものように、すんなりと許してもらう。

 浦戸から蒸気船で神戸港、神戸から京都まで陸(おか)蒸気、歩いて鈴鹿峠を越え、四日市から蒸気船で横浜港、陸蒸気で東京、新橋ステーションへ。 駅前で「コラ、国はどこか。名と、齢(とし)」と薩摩らしい巡査。 「博覧会の見物に来たがです。あの福沢諭吉先生も『西洋事情』で書いちょられるじゃないですか、博覧会は知力工夫の交易じゃ、と」