朝井まかて『ボタニカ』、日本植物学の父、牧野富太郎伝2022/02/04 07:03

 子供の頃、植物のことと言えば牧野富太郎だと聞いていて、『学生版 牧野日本植物図鑑』を持っていた。 朝井まかてさんの長編小説『ボタニカ』(祥伝社)を読んだ。 日本植物学の父、牧野富太郎、愛すべき天才の情熱と波乱の生涯を綴った494ページの大冊である。 まず、腰巻文学を引く。

 「ただひたすら植物を愛し、その採集と研究、分類に無我夢中。 莫大な借金、学界との軋轢もなんのその。 すべては「なんとかなるろう!」 明治初期の土佐・佐川(さかわ)の山中に、草花に話しかける少年がいた。 名は牧野富太郎。 「おまんの、まことの名ぁ知りたい」、「おまんのことを、世界に披露目しちゃるきね」。 小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相(フロラ)を明らかにする」ことを志し、上京。 東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。 私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた……。 貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種(ボタニカ)を究め続けた、稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。 朝井まかての新たなる傑作がここに!」

 牧野富太郎は、文久2年4月24日(1862年5月22日)、佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の造り酒屋で、藩の御用を務めて名字帯刀を許され、荒物・小間物も商う「岸屋」という屋号の裕福な家に生まれた。 幼名は誠太郎、ものごころつかぬ内に両親を亡くし、7歳で富太郎と改名、祖母の浪に育てられた。 家業は祖母が大女将で奥を取り仕切り、商いは番頭の竹蔵が差配していた。 手習塾で学び、明治6年数え12歳で目細谷の、「佐川山分(さんぶん・山が多い意)、学者あり」といわれた伊藤蘭林の伊藤塾に通った。 蘭林のすすめで、藩校名教(めいこう)館が名教義塾となったのに進み、明治5年の「学制」で、明治7年に名教義塾から代わった小学校に入学した。 祖母は、富太郎の従妹で両親を喪った慶応元年生まれ(三つ下)のお猶を、牧野家に引き取った。

 しかし、小学校に1年通って14歳、授業は知っていることばかり、唯一の愉しみは一枚ものの「博物図」、夢中になって植物学の入門の階梯となったものだけで、15歳になって小学校を退学した。 実は前年冬から名教義塾の英学教授だった茨木先生が小学校の教員らに学問を授けている伝習所に行っていた。 番頭の竹蔵は、富太郎が伊藤塾、名教義塾や小学校を終えるたびに、家業に入ることを期待したけれど、「植学を志す」「学問は一生、いや二生あっても足りん。わしには究めたいことがようけある」。 福沢諭吉先生の『学問のすゝめ』、『英和対訳袖珍辞書』、『和訳英辞書』、ペンシル、ルウペ、蒔絵の筆などなど、取り寄せる鳥羽屋への去年の大節季(おおせっき)の払いは、手代らの一年分の俸給に負けず劣らずだった。

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