東大植物学教室に出入りを許され、植物雑誌の出版を計画 ― 2022/02/09 07:13
富太郎が念願の再上京を果たしたのは明治17年4月、飯田町の表長屋の二階に下宿して、地図を片手に方々へ出かける。 小野職愨の紹介状を持って、東京大学理学部植物学教室へ、矢田部良吉教授に面会した。 土佐とは懐かしい、元治元年14歳で沼津から江戸に出て中浜万次郎に英語を習ったという。 外交吏としてアメリカに渡り、コーネル大学でボタニー、植物学を修めた。 富太郎の腊葉標本を褒め、標本は生きた本草図譜、ヨーロッパでは200年以上も前から乾いた庭園などと呼ばれてきたが、私は別のウインタアガーデンという言い方が好みだと言う。 丸善から出た『日本植物名彙(めいい)』を本屋に取り寄せているというと、「これかね」と出す。 表紙に東京大学教授矢田部良吉閲、東京大学助教授松村任三編纂とある、松村は先ほど紹介された。 日本人の手になる最初の日本植物総覧だ。
フランス、パリの博物館員で植物学の研究者フランシェと、横須賀の製鉄所に来た医師サヴァチェが著した大著『日本植物目録』が10年ほど前に刊行されていたが、土佐では手に入らなかった。 岩崎灌園の『本草図譜』や飯沼慾斎の『草木図説』が引用され、和名も記されている。 「実は手前も土佐の植物の目録作りに取り組んじょりまして、なんとしても完成させたいと励んじょります」 土佐の好学の士を歓迎する、「ここの書物も好きに閲覧したまえ。教授陣は5名、学生は本科、選科合わせて11名というスモウルファミリイだがね。ウエルカム、ミスタマキノ」 「サンキュウ、サー」と差し出された手を握った。 学生たちは矢田部を「ユーシー」と呼ぶ、「ユーシー、ユーノウ?」と念を押すのが口癖だからだ。
植物学教室に出入りを許された翌明治18年6月、再び上京、夏には教室が医学部附属の建物へ引っ越しするのを手伝い、植物雑誌の出版を計画して、植物画を載せるのに石版印刷機を買って土佐に送ることを考える。 明治19年5月、また上京、神田錦町の太田石版店という小さな工房に、給金は要らない、土佐で石版印刷ができるようになりたいと、頼み込んで、許される。 この3月公布の帝国大学令で、東京大学は帝国大学、理学部は理科大学、生物学科が動物学科と植物学科に分かれた。 7月下旬、工房は夕方からにしてもらい、『植物学雑誌』に掲載する日本産ひるむしろ属についての論文と画の準備にかかる。 矢田部教授は東京植物学会に『植物学雑誌』としての船出の了解を取ってくれた。
工房の太田に誘われて、三番町の芸妓屋町の花乃家に連れて行かれ、下戸の富太郎は席を外した庭で、この家の十三、四のスエという女の子と言葉を交わした。 手に持っている竹蜻蛉のようなものを、翼果(よっか)と気付き、「楓の実じゃ、秋になったら赤い竹蜻蛉になるさ、風に乗ってくるくる舞うて、それは美しい景色じゃ」と教える。
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