学歴問題、東京に子ができた問題2022/02/10 07:06

 明治20年2月、念願の『植物学雑誌』第一号を発行、富太郎は「日本産ひるむしろ属」と題する論文を発表した。 矢田部教授は自邸に招き「よくやった。とくに図が素晴らしい。今後に期待しているよ」と褒めてくれた。 しかし、植物学会の機関誌として出したのに、論文を発表している牧野富太郎君が学会の一員でないどころか、帝大の学生でもないのはいかがかという意見が一部にある、植物学科の特別聴講生として処遇出来ないかとも考えたが、大学としては君の学歴ではどうにもならんとの見解に至った。 第一高等中学校を経て、帝大に入る気はないか、と聞く。 「(日本の植物の全容解明に)ただでさえ時が足りぬのに、植物以外のことに力を費やすのは遠回りが過ぎますき」と答えた。 その月の半ば、祖母が卒中で倒れたという電報を受けた。 帰郷の車中で、どうやら、帝大の人間ではないというだけで業績を真っ当に評価されぬらしい、26歳の牧野富太郎、わし一人で書物を出して世に問おう、よし、日本のフロラを明らかにする『日本植物志』を刊行してみせよう。

 明治21年正月、『土佐国羊歯(シダ)植物図編』第三編をまとめ上げ、四度目の上京をし、三番町に下宿した。 花乃家が菓子屋になっていて、娘のスエが店番をしていた。 何度か通っているうちに、三日も会わずにいると、居ても立ってもいられなくなった。 会いたい。 どうしようもなく恋しい。

 「じゃあ、よろしゅうござんすね、産ませても」 長火鉢の前で、スエの母親が言った。 「むろん」と、富太郎。 スエの父親が、由緒ある武家で、陸軍にも奉職していたのに、「あなたみたいな、みょうちきりんな学者見習いとは」と言われ、富太郎は、東京にも家を構えて、一緒に暮らす、土佐の妻にも話をする、と約束する。

 「実は、子ができた」 「さようですか」と呟く。 と、膝で退(すさ)り、居ずまいを正してから手をついた。「おめでとうござります」 「腹帯は、牧野家よりのお祝いとしてお贈りします」 「そうか。祝うちゃってくれるか」 「さすがはお猶じゃ、頼もしい」 小膝を打ち、「いやあ、めでたいのう」と躰で拍子を取る。 「ほたえな」 低い声が聞こえて、見れば猶が上目遣いで睨んでいる。 子供みたいに図に乗るな、騒ぐなと言い放たれて絶句した。

 「お子が男の子なら岸屋の跡継ぎです。その筋を通すまでのこと。ともかく日にちが決まったらお知らせください。住所とお名前も」

 「おいくつですか」「お相手の方ですよ」 「十六じゃ」 「一回りほどもお若い」「旦那様、長生きなされませ」

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