植物学教室出入り禁止、岸屋を潰す2022/02/12 07:04

 明治23年江戸川沿いの伊与田村(前年、南葛飾郡小岩村と改編)で採集した水草が、インドや欧州、オーストラリアで発見された食虫植物、アルドロヴァンダ・ベシキュロスの、日本にも産するという新発見だった。 牧野は貉藻(ムジナモ)と名付け、その後、欧州の学者が確認できていなかった、その開花を確認、図解して『植物学雑誌』に発表することになる。 しかしながら、矢田部良吉教授に呼ばれ、帝国大学理学部植物学教室で日本の植物志を刊行することになったので、向後、標品や書物の閲覧は遠慮してもらいたいと、教室への出入りを禁止されてしまう。 田中(市川)延(のぶ)次郎と池野成一郎が心配して、9月から帝国大学農科大学になる駒場の東京農林学校の顕微鏡を貉藻の研究に使わせてもらうことを、掛け合って来てくれた。 富太郎は9月から農科大学林学科に通い、11月刊の『植物学雑誌』に貉藻発見について発表したが、和名とごく簡単な説明に留まったのは、植物学教室の文献を参照できないからだった。

 思い切って矢田部教授を自宅に訪ねたが、「大学の物は好きに使うて私家出版に役立てる、しかし己の物は出さぬ。それでは通らんのだよ。土佐の標本を一揃い、大学に納めたまえ。これが最後通牒だ」、『日本植物図解』の出版は丸善が引き受けた、と言う。 全国にそれが行き渡れば、牧野の『日本植物志図篇』はどうなるか。

 失望した牧野富太郎は、建設中のニコライ堂のニコライ主教を頼って、ロシアのマクシモーヴィチのところへ渡って研究を続けようとしたが、マクシモーヴィチが亡くなったという返事が来た。 さらに、応えた。

 明治21年『日本植物志図篇』を出版した頃、郷里の友人たちの連名で、お猶と和之助が理無(わりない)仲になっている噂だという手紙が来た。

 明治25年9月末、いつにもなく強く帰郷を促す文が届いた。 お猶は、度重なるカネオクレの電信、百円が五十円のごとき遣い方で、近頃ではおスエさんからも五円、十円と言うてきなさる、諸国の宿屋や東京の本屋、印刷屋からの請求書に、岸屋の蓄えは払底してしもうた、と言う。 富太郎は「学問には金がかかる」と、いつもの理屈を持ち出したが、「旦那様がここにお戻りになるつもりがおありなら、ご親戚一同に頭をお下げして家屋敷だけでも残せんものかと考えましたが、それは詮無いこととわかりましたゆえ、お覚悟を願います。この岸屋の家屋敷、家作に田畑すべて、一切合財を投げ出さんことには負債はなくならん、もうそこまで来ちゅうがです」 お猶と和之助に、整理を任せた。

 一年後、猶から電報が届き、佐川に帰った。 負債は残らず済んだという。 「祖母様、とうとう岸屋を潰しました。六代目のわしが、喰い尽くしてしもうたがです」 丸顔だった猶の頬に翳が落ちている。 三つ下だから、数え二十八か。 猶が茶を淹れに席を外すと、和之助に言った。 「お猶とは離縁しようと思う。もっと早うにするべきやった。あれには夫婦(めおと)らしいことを何もしてやらんと、苦労ばかりをかけた。あれは賢うて気甲斐性もある。が、夫婦にはどうにもならん組み合わせというものがあるき。気の毒なはお猶じゃ。嫁ぐ相手が違うたら、あれは笑うて暮らせたろうにと思う。もっと朗らかに生きられた」 ひと思いに切り出した、「なあ、和之助。あれと一緒にならんか」「お前さえよかったら、お猶を頼む。お猶がえいと言うたら、あれの実家、それから牧野の親戚にも、わしから話をする。こういうことは、こっそりと運んだらろくなことがないがよ。一気に打ち明けて披露して、そのまま高砂やを唄うがえい」 和之助は頭を深々と下げ、「恐れ入ります」と呟いた。 まるで頃合いを見計らったかのように、襖が少し開いて、猶が座敷に入ってきた。

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