増え続ける借金、助手の罷職、嘱託から講師へ2022/02/15 07:28

 池野が矢田部教授の非職を知らせて来たのに、浮かぬ顔をしているので、重大な屈託でもあるかと聞かれ、「借金で首が回らん」と言った。 家のやりくりはスエにまかせきりだが、質屋に通ったりしており、家賃も滞りがちで、引っ越しを繰り返している。 富太郎は、財産を鷹揚に使い捨てるような費消が癖といおうか、必要と思ったものは印刷機でも書物でも懐にかまわず手に入れ、自費出版を続けている。

 明治26年、15円の俸給で助手に採用されて少しは楽になるかと思ったが、それから俸給は上がらぬままで、いつかまた高利貸しとの縁が復活して、ある日、借金の総額が二千円ほどになっていると壽衛に打ち明けられた。

 その窮状を耳にした同郷で法科の土方寧教授が動いてくれ、『日本植物志図篇』を大学の浜尾新総長に見せ、「これほどの学問をしている男です。俸給を上げてやってはどうですか」と掛け合ってくれたらしく、大学刊行の『大日本植物志』の執筆と編集を拝命した。 土方教授は同郷の宮内大臣田中光顕公や、土佐出身の三菱本家、岩崎家にも働きかけてくれ、それで岩崎家が二千円の借金を片付けてくれて、ひとまずは窮地を脱したのが、7年前の明治29年のことだった。

 明治40年、助手として奉職してから16年、齢49、またも富太郎の逼迫を見かねての浜尾新総長の温情で、東京帝室博物館天産課の嘱託、手当30円を拝命した。

 しかし明治43年、松村教授に呼ばれ、3月末での助手の罷職を申し渡される。 だが「牧野がおらんと不便だ」と周囲から声が上がり、大学の上層部に掛け合う、そして呼び戻される。 4月半ば理科大学の箕作佳吉学長から、「植物取調」の仕事を嘱託で引き受けぬかとの打診があった。 矢田部教授に教室への出入りを禁じられた時と同じ経緯だ。 富太郎自身、教室の膨大な文献資料がなければ植物分類学者としては苦しい。 生活苦もある。 ならぬ堪忍をして、嘱託を引き受けた。

明治44年12月末に、富太郎が主になった東京帝国大学編『大日本植物志』第一巻第四集を刊行。 年が明けて明治45年、東京帝国大学理科大学講師の辞令を受けた。 この顛末まで前回と似ていた。 嘱託身分から「助手にしてやる」、今回は「講師にしてやる」と糸を垂らされた。 意地を張って妻子を飢えさせるわけにはいかない。 パクリと口を開けて喰いついた。