源頼朝、武家の都「鎌倉」をひらく2022/03/12 07:03

昨日書いた敗走する平家の追討軍を追って、京へ攻め上らなかったことについて、『英雄たちの選択』「源頼朝、武家の都「鎌倉」をひらく」(2020年8月)の再放送を見たら、上総広常、千葉常胤、三浦義澄の三人が待ったをかけたからだと言っていた。 所領が大事で、留守を狙う北の動き(常陸の佐竹氏は平家方、奥羽の藤原氏)も怖い、東国を平定してから上洛しよう、というのだった。 当時、源頼朝は34歳、伊豆に流されて20年が経ち、治承4(1180)年8月東国武士の棟梁として挙兵した。 京都に戻りたいという自己主張はあるが、東国の基盤を安定させてから、次のステージに移ろうと考え、東国に留まる決断をした。 拠点を鎌倉にしたのは、父・義朝の館もあったし、三方を山、前面を海に囲まれた要害の地だったからだ。

町づくりにとりかかる。 六浦道(むつらみち)沿いに鶴岡八幡宮を移し、その東に大蔵御所を設けた。 大蔵御所は、大倉御所とも書かれ、開いた幕府は「大倉幕府」と言われた。 2018年11月の志木高新聞OB会で、一年下の編集長だった鎌倉由比ガ浜在住で、「鎌倉三日会」会長の渋谷哲男さんに教えてもらったことを、「大倉幕府」を知っていますか?<小人閑居日記 2018.11.15.>、大倉幕府跡のマンション建設問題<小人閑居日記 2018.11.16.>に書いていた。 その一部を、つぎに引く。

 源頼朝は治承4(1180)年鎌倉の地に入ると、大倉の地に屋敷を構え、ここに侍所、公文所、門注所など政治の場を整備した。 鶴岡八幡宮へ向かって右手奥、鎌倉市雪ノ下3-11の清泉小学校の側にある大倉幕府跡の碑を中心に、東御門、西御門と金沢街道(六浦道)に囲まれた東西約270m、南北約200mの方形の地域であったと、推定されている。 大倉幕府跡は、鎌倉・室町・江戸と続く武家政権の、まさに発祥の地という象徴的で重要な場所であり、神奈川県の埋蔵文化財包蔵地「官衙跡・鎌倉市重要遺跡」に指定されている。 大倉幕府は、大倉御所とも、大蔵御所とも、呼ばれている。 この地が選ばれたのは、大倉が鎌倉の外港六浦(横浜市金沢区六浦)と鎌倉を結ぶ六浦道沿いの場所であったことと、四神相応の地であったことが挙げられるという。

 鎌倉幕府は、大雑把に言って三つあり、大倉幕府は、治承4(1180)年から嘉禄元(1225)年まで45年間(承久元(1219)年まで39年間という説もある)この地にあった一番最初の幕府である。 嘉禄元(1225)年、執権北条泰時が宇都(津)宮辻子幕府(鎌倉市小町)、嘉禎2(1336)年、若宮大路幕府(鎌倉市雪ノ下)へと移設している。 若宮大路幕府への移設については、朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人の陰陽師と奈良興福寺の僧で法印の珍誉との間で論争があり、珍誉が『作庭記』の「山川道澤」四神相応の地として推した若宮大路が選ばれたと『吾妻鏡』にあるそうだ。