鎌倉「山側のまちづくりの歴史」2022/03/15 07:13

2015年6月、広瀬すずを初めて見た映画、是枝裕和監督の『海街diary』は、鎌倉が舞台で、その四季を描いた映画だった。 その2015年の秋、映画のことを書き、ついでに鎌倉のまちづくりの歴史についても書いていたので、それを三日間にわたって再掲することにした。

     鎌倉「山側のまちづくりの歴史」<小人閑居日記 2015.11.13.>

 『ブラタモリ』今年のシリーズ、#5が「鎌倉」だった。 800年前の「まちづくり」がテーマだった。 先日、歩いたあたりの扇ヶ谷(おおぎがやつ)で始まった。 扇ヶ谷は、高校時代に友人の家があり、泊めてもらって、朝、鎌倉駅まで走って登校したりしたので、懐かしい地名だ。 番組は扇ヶ谷2丁目5の上杉管領屋敷跡に、案内役の東大史料編纂所の高橋慎一朗准教授が現れた。 鎌倉には「山側のまちづくりの歴史」と「海側のまちづくりの歴史」があるが、まず「山側」をたどる。 鎌倉時代の鎌倉の範囲「鎌倉中(ちゅう)」(京都で洛中というように)に10万人が住んでいたという、今はそこに5万人。 扇ヶ谷の谷「やつ」・「やと(谷戸)」が、鎌倉には200以上ある。 各「やつ」に、武家の屋敷、寺があった。

 一行は、扇ヶ谷の泉谷山(せんこくざん)浄光明寺(じょうこうみょうじ)へ行く。 第五代執権北条時頼、六代長時の屋敷が、後に寺に変わった。 大三輪龍哉住職が登場、15年前近くの民家で世紀の大発見された「浄光明寺敷地絵図」(国の重要文化財)を見せてくれる。 なぜ大発見か、これが鎌倉時代の「鎌倉中」を描いた絵図として、現存する唯一のものだからだそうだ。 番組初めの上杉管領屋敷跡から、浄光明寺に至る少し湾曲した道が、鎌倉時代と同じだったことが、この絵図から判明する。

 浄光明寺境内を歩くと、自然の谷を利用して、階段状に立体的に敷地を確保し、平場を造成している。 「やつ」の奥に、トンネルや「やぐら」と呼ばれるものがある。 「やぐら」とは、崖の一部を人工的に彫り込んで作られた洞窟で、お墓や死者を供養するお堂として使われた。 平地が少ないので、そうしたのである。 崖は「鎌倉石」と呼ばれる、凝灰質砂岩で、削りやすく、火に強い性質がある。 絵図に地蔵院とある平場には、網引地蔵菩薩坐像(正和2(1313)年)が安置された、鑿(のみ)の跡の残る立派なつくりの「やぐら」のお堂がある。 「鎌倉石」の石切り場もあり、30×15×90センチのサイズの規格品を、石垣や敷石用に切り出していたらしい痕跡があった。 地層や断層が見られる「鎌倉石」の崖をバックに、立派な柏槇(びゃくしん)が形よく垂れ下がった庭も、作庭されていた。

 武士たちが山をみずからの力で切り拓き、「鎌倉石」を生かして町づくりをしていたことがわかる。

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