難攻不落の鎌倉、ついに滅亡2022/03/17 07:09

     難攻不落の鎌倉、ついに滅亡<小人閑居日記 2015.11.15.>

 モノクロの岩波写真文庫の後、カラーのしっかりした造本でIWANAMI GRAPHICSというシリーズが出た。 その25が永井路子・文、松尾順造・写真の『鎌倉―中世史の風景』(1984年)だった。 書棚に置いて、折にふれて眺める。 『ブラタモリ』で「前浜」には処刑場などがあり、今でも掘ると人骨が沢山出ると言っていたが、この本を見ると、鎌倉にはどこを掘っても人骨が沢山出そうな、凄惨な歴史が埋もれていることがわかる。 表紙は北条高時腹切やぐら、本扉はまんだら堂だ。 

 [堅城鎌倉] 「幕府は鎌倉を無類の堅城として自信を持っている。その名残りをしめすのは、鎌倉東部、法性寺(ほっしょうじ)裏の大切岸(おおきりぎし)だ。(「まんだら堂」はここにある。)人工的に削りとられた大断崖は外部からの侵入をきびしく拒んでいる。わずかな連絡路は名越道(なごえみち)で、狭く、かつ峻険な坂道が続く、人も馬もこれらは一列でしか通れない。」 「西の守りは稲村ガ崎である。自動車を通すためにむざんに切りとられた丘陵部をもう一度復原して眺めていただきたい。そしてその波打際といえば、ぬるぬると足をすべらせそうな岩に、間断なく波が襲いかかってくるのである。」

 [難攻不落] 「東と西を岬と断崖で固め、さて、内部に入るのは、すべて尾根づたいの坂道である。鎌倉七口は京都七口と違って、人を入れる口というよりも、入ることを拒むための急峻なのである。」 「極楽寺坂も思いきりよく切りとられ、昔の姿はないが、道の片側にある成就院の参道の傍に、いたちでも通るほどの細い道の名残りがあるが、これが旧道だという。」「このあたりに立ってみると、鎌倉の海岸から市中が手にとるように見渡せる。鎌倉攻めにあたった新田義貞が、ここを狙ったのもよくわかる。そのために干潮を利用して、稲村ガ崎を迂回したのである。」 「難攻不落の武士の都の攻防は凄絶をきわめた。化粧坂も極楽寺坂も無数の血で彩られた……。」

 [草青みたり・死の美学] 「鎌倉は怒号と血と炎の中に燃えつきる。平家の都落ちとは何たる違いであろう。」 長崎高重は徹底して奮戦し、やがて本拠に戻って自刃する。「その本拠は東勝寺。北条氏の本邸の奥にあり、滑川を自然の堀にした、寺というより詰の城だった。そこで主権者高時以下、870余人が館に火をかけて切腹するが、それは絶望の自殺ではない、――死んでも首は取らせるものか、とわれとわが身を灰にする抵抗の死だ。」 「近年の東勝寺跡の発掘によって、むしろ城砦とも呼ぶべき遺構の軍事的性格が明らかになるとともに、まざまざと焼土層が確認されたのだ。いまは埋め戻された跡地に草は青み、人影もない。」

 [幽魂縹渺・腹切やぐら] 「惨たる戦禍であった。敵味方の戦死者数千、浜辺にも埋められたし、東勝寺に程近い北条氏ゆかりの釈迦堂跡からも、人骨と鎌倉滅亡から数えて初七日にあたる元弘3年(1333)5月29日の銘を刻んだ五輪塔が発見されている。」 「東勝寺跡の発掘によって、高時最期の地と伝える「腹切やぐら」はいささか伝説化してしまったが、ここも寺域内だったことを思えば、葬送の地でなかったとはいえないのである。」 「権力の集中も軍備の強化も決して勝利にはつながらない――地下の幽魂は、いまも樹の蔭に縹渺と漂いつつ、そう言いつづけているのではないだろうか。」