江上剛さんの『創世(はじまり)の日』を読む2022/03/18 07:15

 文字通り「巻措く能わざる」を経験した。 2月の「等々力短信」第1152号「文京区へ「小さな旅」」に書いた、江上剛さんの『創世(はじまり)の日 巨大財閥解体と総帥の決断』(朝日新聞出版)である。 短信を長く読んでもらっている高校の同級生が、実は江上剛さんとゴルフ仲間だったのだ。 短信のコピーを江上さんに届けたところ、『一冊の本』2月号の巻頭随筆「なぜ私だけが苦しむのか」と、『創世(はじまり)の日』のサイン本を送ってくれたという。 それで友人はすでに入手してあった本を、私に贈ってくれたのだ。

 私は短信に、「岩崎久彌は彌太郎らと違い、書き物を一切残していない、戦後の財閥解体で、東洋文庫、清澄庭園など多くの岩崎家の資産を公的団体に寄付した。 江上さんは「神のものは神に返しなさい」という聖句を思い出し、久彌の潔さに感動した、という。」と書いた。 久彌が寄付した資産には、東洋文庫の近くの六義園もあった。 さらに、清澄庭園と六義園の東京市への寄付は、「戦後の財閥解体」前で、清澄庭園は大正13(1924)年、六義園は昭和13(1938)年のことだった。 東洋文庫だけは、戦後の財閥解体の混乱で散逸の危機に瀕したが、昭和22(1947)年に理事長に就任した幣原喜重郎元首相の尽力で、国会が支援に乗り出し、昭和23(1948)年同じく三菱財閥傘下の静嘉堂文庫とともに、発足したばかりの国立国会図書館の支部となったのだそうだ。

 『創世(はじまり)の日』は巻末に沢山の参考文献が列挙されているが、フィクションだから、三菱財閥、岩崎家は花浦家になっている。 三菱、創業者は岩崎彌太郎、二代目は弟の彌之助、三代目は彌太郎の長男久彌、四代目は彌之助の長男小彌太である。 花浦家では、岩崎彌太郎が花浦弥兵衛、弟の彌之助は真兵衛、三代目久彌は久兵衛、四代目小彌太は藤兵衛という名になっている。 物語は、三代目久彌の久兵衛が主人公だ。

 岩崎久彌は、明治26(1893)年に三菱合資会社社長に就任し、大正5(1916)年に退任している。 慶応元(1865)年、彌太郎の長男として土佐国安芸(あき)郡井ノ口村で誕生し、明治8(1875)年に慶應義塾幼稚舎に入り、3年後に父が開設した三菱商業学校を経て、慶應義塾普通部を卒業後、明治19(1886)年にアメリカに留学、明治21(1888)年ペンシルヴェニア大学ウォートン・スクールに入った。(久彌がペンシルヴェニア大学のあったフィラデルフィアで、三菱商業学校で教わった馬場辰猪の病気と客死の面倒をみた話は、岩崎久弥・叔父弥之助と馬場辰猪<小人閑居日記 2010.12.26.>、「外からの改革」と馬場辰猪の客死<小人閑居日記 2016.7.11.>に書いた。)

 『日本歴史大事典』に、岩崎久彌は「温和で地味な性格で自然を愛し、小岩井農場や東山農場(とうざんのうじょう)(韓国)をはじめ、多くの農場を経営。一門の長者としてシンボル的な存在であり、三菱財閥の実際の経営は叔父の彌之助や従弟の小彌太が指揮した。」(三島康雄)とあった。