都倉武之さんの「池之端の陰陽」2022/03/22 07:08

 都倉武之さんの旧岩崎邸見学記の素晴らしいのは、いろいろな挿話や引用がちりばめられているところだ。 三菱史料館の原徳三さんの話では、福沢諭吉が天保5年12月12日生まれ、岩崎彌太郎が前日の11日生まれの一日違いだということ、俳優の森繁久彌の名は、岩崎久彌にもらったものだそうだ。

 三菱史料館を出て、無縁坂を下る。 右側にはツタ這う石垣の上に岩崎邸の煉瓦塀が、坂下まで続く。 森鴎外の『雁』で、岡田青年が散歩に下った無縁坂である。 「坂の北側はけちな家が軒を並べていて一番体裁の好いのが、板塀を繞らした、小さいしもた屋、その外は手職をする男なんぞの住いであった。店は荒物屋に煙草屋しかなかった。中に往来の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事をしていた」(『雁』)というが、今はマンションがこの坂を見下ろしている。 さだまさしが「忍ぶ不忍無縁坂」と歌ったのもこの坂で、わざわざ訪れる人も多いらしい、とある。

 久彌の長女としてこの家に育ち、後にエリザベス・サンダース・ホームを作る沢田美喜は、岩崎家の信じられないほど質素で清潔な生活の営みを、こう回想している。 「私はいつも、朝起きて窓を開け、新鮮な空気を胸いっぱいに吸って、隣りの人に「お早う!!」と言い合える生活を夢みていました。高い塀にはしごをかけて、外をのぞこうとして引きずり降されて、叱られたこともありました。……本で読みかじり、聞きかじった「人形の家」とか「生きる屍」とか「かごの中の鳥」などとぼやいたこともありますが、そのときこそ、私の魂がつちかわれ、今日の生活のもとがつくられた時代だったのでしょう」(沢田美喜『黒い肌と白い心』) 沢田美喜はまた、戦時色も強まり、金属や宝石の供出が始まると久彌は、「全部出してしまえ。岩崎の一族で、一つでも残していたといわれては家の恥だ。戦争に敗けてダイヤなどつけていられるものではない」と言ったと、書いているそうだ。 その言葉通り、洋館に取り付けられていた銅板や屋根飾り、ベランダの柵は、全て取り外され、失われていた。 近日中に修復されるとのことだが、「久彌が国のために率先して外し、この建物の戦後五十年は、これらの部分が無かったということもしっかり記録されておくべきだ」という原徳三さんの言葉が印象的だった、と都倉さんは記録している。

 第二次大戦後、岩崎邸を米軍が接収、諜報機関CIC(通称キャノン機関)が「岩崎ハウス」と呼んで本拠地にした件では、都倉さんは松本清張の『日本の黒い霧』も引用している。 昭和26年11月、作家鹿地亘がキャノン機関に拉致され、一年以上行方不明になった「鹿地亘事件」で、彼が最初に監禁されたのは「岩崎ハウス」の二階であった。 「建物の階段を半ば担がれて二階の一室に連れ込まれ、後ろ向きのまま夜明けまで尋問が続けられた。『英語を知っているか』と訊かれたが、『少しは分るが、知らぬ』と答えると、彼らは英語で相談をはじめた……キャノン少佐は、自分に『拷問は嫌いだが、場合によっては止むを得ない』と云い、また『静脈に麻薬を入れて無意識のうちにしゃべらせてやる』とも云った。」

 米軍に接収されてから、久彌と家族は、和館の一部を間借りして、キャノン機関がやりたい放題に振る舞う様子を、眺めていた。 美喜によれば、厳格だった父久彌が「七十年も住んだこの家、不義者一人出さなかったこの家を、女郎屋にしてしまった」と、一度だけ悔し涙を流したという。