岩崎久彌の三女綾子、福沢諭吉の孫と結婚2022/03/24 06:58

 江上剛さんの『創世(はじまり)の日』で、花浦久兵衛と妻静子には、長男菊兵衛、次男桜(おう)兵衛、三男光兵衛、長女美喜、次女幸絵、そして三女綾乃がいる。 岩崎久彌、寧子夫妻には、長男彦彌太、次男隆彌、三男恒彌、長女美喜、次女澄子、三女綾子がいた。 美喜だけが、そのままの名前になっている。 綾乃と綾子の関係だが、この本では終戦時に久兵衛が80歳で、綾乃が昭和9(1934)年生まれの11歳となっている。 綾子は明治41(1908)年の生まれだから、終戦の時は47歳だった勘定になる。 というわけで、アヤノ・エリアス・ジョンソンは、この物語のための架空の人物なのだろう。

 岩崎綾子、福沢堅次と結婚している。 実は福沢堅次、福沢諭吉の孫に当たる。 福沢諭吉の次男・捨次郎と、林董の娘・菊の息子だからだ。

 林董(ただす)は、下総国佐倉の蘭医で順天堂創立者佐藤泰然の五男に生まれ、のち幕府御殿医林洞海の養子となった。 泰然の次男で、幕府の医官松本良甫の養子となった松本良順の弟に当たる。 横浜でヘボンらに英語を習い、慶応2(1866)年幕府留学生としてイギリスに学ぶ。 明治元(1868)年帰国し、榎本武揚軍に投じ箱館戦争に参加。 明治4(1871)年陸奥宗光の推挙で明治政府に出仕、同年岩倉遣外使節団に随行、欧米を巡回。 帰国後、工部、逓信各省から香川県知事を経て明治24(1891)年外務次官となり、榎本、陸奥両外相のもとで条約改正、日清戦時外交に活躍した。

 福沢捨次郎は、慶応元(1865)年生まれ、慶應義塾本科卒業後、明治16(1883)年兄一太郎とともにアメリカに留学し、オハイオ州オーバリン、ニューヨーク州ポーキプシーで学んだのち、ボストンのマサチューセッツ工科大学(MIT)で鉄道に興味を持ち土木工学を専攻した。 明治22(1889)年中上川彦次郎が社長を務めていた山陽鉄道会社に入り、その後、時事新報社で社長も務めた。

 明治24(1891)年2月8日、福沢諭吉と妻錦は、次男捨次郎と兵庫県知事林董の娘菊(17歳)との結婚式に出席するため、神戸へ向かった。 途中、名古屋で一泊し、9日の夕刻神戸に到着、翌10日、日本郵船会社の小川「金冉」吉を媒酌人に、宇治川の旅館常盤楼で行なわれた結婚式に参加した。 11日には新婚の捨次郎夫婦と共に林家に招かれ、歓待を受け、翌12日、倉敷に新婚旅行に向かう次男夫婦を見送っている。

 捨次郎と菊夫妻には、園、時太郎、富士、堅次の二男二女があり、次男堅次が岩崎綾子と結婚したわけだ。 私が高校生の頃だったか、確か慶應義塾の行事に福沢家の代表として福沢時太郎さん(信雄さん、武さんの父上)が出ておられて、たまたま父と目黒の映画館に森繁久彌の社長シリーズを観に行ったら、前の列に福沢時太郎さんがいらっしゃるのを見かけたことがあった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック