夫のガンによる逝去で、妻が引き継いだ共著2022/03/06 07:04

 2月中旬、志木高新聞部以来の友人、森川功さんから嬉しいメールをもらった。 1月の小人閑居日記を読み返したという。 NHK総合12月8日放送の「昭和の選択スペシャル」「1941日本はなぜ開戦したのか」をくわしく書いたのに続いて、ドラマ『倫敦ノ山本五十六』や山本五十六の無二の親友・堀悌吉にふれた一連を、褒めてくれたのだ。 森川さんもこの問題にずっと関心を持っていて、NHK特集スペシャルはいつも感心しながら鑑賞し、分厚いノートに自分メモ用に読書日記を書き溜めているのだけれど、私の日記の文章の正確さ、緻密さ、短文に纏める筆力に感動し、相当気合を入れた文章と想像していると、言ってくれたのだ。 森川さんについては、先年彼の高校時代の「農芸」ノートを見る機会があり、その素晴らしさに驚いたことがあった。

 森川功さんは、学生時代剣道部で活躍して日商岩井に入社、志木高剣道部の創設や指導、近年はヴェトナムなどで剣道の普及に貢献してきた。 その剣道部の後輩に、昭和55年経済学部卒の林(はやし)新(あらた)(日吉高剣道部卒)という人がいて、NHKに入り、インパール作戦などのNHKスペシャルを担当したという。 その林新さんは、私が「南部仏印進駐の誤算」<小人閑居日記 2022.1.10.>の中で、「一ノ瀬俊也さんは、船舶を沈められる数のシミュレーションもしているけれど、甘い(馬場註 : 関連で、大佛次郎賞、堀川恵子さんの『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』が興味深い)。」と書いた堀川恵子さん(広島大出身/NHK岡山勤務)の夫君で、彼が書き始めた「犬養木堂伝」は彼のガンによる逝去で、彼女が引き継いだ共著『犬養木堂伝』は、 司馬遼太郎賞を得た、と教えてくれたのだった。

 調べてみると、その本は『狼の義―新 犬養木堂伝』(KADOKAWA)だった。 内容の惹句は、「日本に芽吹いた政党政治を守らんと、強権的な藩閥政治に抗し、腐敗した利権政治を指弾、増大する軍部と対峙し続け、5・15事件で凶弾に斃れた男・犬養木堂。文字通り立憲政治に命を賭けた男を失い、政党政治は滅び、この国は焦土と化した…。真の保守とは、リベラルとは!?戦前は「犬養の懐刀」、戦後は「吉田茂の指南役」として知られた古島一雄をもう一人の主人公とし、政界の荒野を駆け抜けた孤狼の生涯を圧倒的な筆力で描く。驚愕の事実に基づく新評伝!」

 著者については、林新さん「1957~2017。慶應義塾大学経済学部卒。NHKエグゼクティブ・プロデューサーとしてNHKスペシャル、大型企画を担当。「ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場~ビルマ・インパール~」(文化庁芸術作品賞)「家族の肖像」(ギャラクシー賞)「世紀を越えて」「JAPANデビュー 天皇と憲法」など近現代史に造詣が深い。著書に『よみがえる熱球 プロ野球70年』(集英社)、『日本人と象徴天皇』(共著・新潮社)。」

 堀川恵子さん「1969年生。テレビ記者を経てノンフィクション作家。『死刑の基準』で講談社ノンフィクション賞、『教誨師』で城山三郎賞、『原爆供養塔』で大宅壮一ノンフィクション賞、『戦禍に生きた演劇人たち』でAICT演劇評論賞。林との共同制作に「ヒロシマ・戦禍の恋文」「新藤兼人95歳 人生との格闘果てず」「死刑囚永山則夫~獄中28年間の対話~」等(いずれもNHK)」

 林新さんと堀川恵子さんの共著『狼の義―新 犬養木堂伝』は、2019年12月、第23回司馬遼太郎賞を受賞した。

首都機能が広島へ移転、帝国議会も明治天皇も2022/03/07 07:11

 そんなわけで、堀川恵子さんの『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』を入手した。 「序章」の書き出しで、いきなりガチンとやられた。 「明治27(1894)年、日清戦争を機に、東京の大本営が広島に移されたことはよく知られている。」とあるが、それも、ぼんやりとしか知らなかった。 問題は、その次である。 「帝国議会も衆議院・参議院ともに広島に議場を移し、議院たちが大挙して押しかけた。首都機能が丸ごと地方に移転した、近代日本唯一の例である。その特異な様子は、広島市中に陣取った文武百官の住所にもうかがえる。」とあるのだ。 これは、全く知らなかった。

 堀川恵子さんは、続ける。 「たとえば総理大臣・伊藤博文の居宅は大手町4丁目。参謀本部次長の川上操六は大手町3丁目、第一軍司令官の山県有朋は比治山(ひじやま)の麓。山県の後を継ぐ野津道貫は大手町8丁目。新聞社主筆の徳富蘇峰が滞在した旅館は大手町4丁目。人力車で数分の距離に国内の要人すべてがそろった。」

 「極めつけは広島の1丁目1番地たる広島城に、明治天皇その人が寝起きしていることだ。「廣島大本営職員録」によれば、侍従長はじめ大膳職(食事や儀式を担当)、庶務、会計、警備担当など66人の職員が広島に随行した。」

 「開戦から3ヵ月後の10月5日、明治天皇は勅令第174号を以て「臨戦地境(戦時にあって警備を要する地域)」の戒厳令を布告。広島を「戦場」並みに位置付けた。天皇自ら就寝するまで決して軍服を脱がず、侍従にも軍服を着用させた。戦地の兵隊と同じように過ごさねばと城内への女官の立ち入りを禁じ、ストーブを持ち込むことすら拒んだ。約7ヵ月の広島滞在の間、大本営から外に出たのはわずかに四度だけだった。」

 「帝国議会 広島」で、検索した。 明治27(1894)年8月1日に始まった日清戦争において、日本は大本営を広島市中心部の広島城内に設置して戦争行動を指揮した。 大本営に広島が選ばれた理由は、当時日本から中国大陸への最大の兵站拠点の一つが宇品港だったことが挙げられる。 9月15日には大元帥である明治天皇が行幸し、「当分の間」滞在することになったことを踏まえ、第4回総選挙結果を受けた帝国議会も特例として広島市で開催することとなった。 10月18日より一週間の会期で、「第7回帝国議会」が開かれ、臨時軍事費予算案(1億5千万円余)や戦争関連法案が審議され、全会一致で可決された。 10月22日閉会。 明治22(1889)年の帝国議会開設以来、この年春に至るまで、明治政府(第二次伊藤内閣)と衆議院が激しく対立していたが、政局は日清戦争を転機に一転して挙国一致体制となった。

帝国議会が開催されることになって、広島市中心部に「広島臨時仮議事堂」が設計から竣工までほぼ20日間という突貫工事で建てられた。 設計は妻木頼黄(よりなか)、日本橋や旧横浜正金銀行本店、横浜の赤レンガ倉庫を設計した人だ。 東京以外で唯一建てられた国会議事堂であるという。

八十歳の好奇心、ますます知らないことばかり2022/03/08 07:08

 年賀状の添え書きの多くに、「ほんまに、八十歳になって初めてのこと、ぎょうさんありまっせ。岡部伊都子(いつこ)」と書いた。 鷲田清一さんの「折々のことば」1707 2020.1.23. を、80歳になった私の実感でもあったので使わせてもらった。 鷲田清一さんは、岡部伊都子さんを説明して、「婚約者に「この戦争は間違っている」と告げられたのに、日の丸の小旗を振って送り出し、彼は戦地ではかなく散った。若き日のその痛恨事を原点に、随筆家は戦争や沖縄、差別や環境について、「言わんならんことは言わんならん」と語り続けた。「私は、子無し。私が赤ちゃんなんですから」と小児科医に相談し、老いても日々「刻々の誕生や」と。自伝『遺言のつもり』から。」と書いた。

 初めは年賀状に、「八十、好奇心。ますます知らないことがあるのを、知る。」と、添え書きしようと思ったが、やはり関西弁のインパクトを採って、岡部伊都子さんにしたのだった。 鷲田清一さんの「折々のことば」2236 2021.12.18. に、「不知爲不知、是知也、」があった。 「知らざるを知らずと為(な)せ。是れ知るなり」。 孔子『論語』(金谷治訳注)巻第一・爲政(いせい)第二から。 鷲田清一さんは、「自分はこういう世界、このような問題のあることをこれまでずっと知らなかったのかと、愕然とすることがある。「知らないことは知らないこととする、それが知るということだ」。限界や輪郭を知ってはじめて人はおのれの知のありようを知る。謙虚という徳が知恵の裏張りをなす。」と。

『鎌倉殿の13人』平相国、木簡、佐殿、武衛2022/03/09 07:06

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(三谷幸喜・作)を、面白く見ている。 いろいろ、知らないことがある。 1月9日の第1回「大いなる小競り合い」北条の家は父・時政(坂東彌十郎)、子・宗時(片岡愛之助)・政子(小池栄子)・義時(小栗旬)・実衣(宮澤エマ)、時政は京から迎えた後妻りく(宮沢りえ)にデレデレだ。 伊東家は、北条と、三浦(三浦義澄(佐藤B作)子・義村(山本耕史))両家を束ねる。 伊東祐親(浅野和之)は、義時と義村の祖父に当たる。 伊東家で預かっていた源頼朝(大泉洋)と伊東の娘・八重(新垣結衣)の間に子・千鶴丸が生まれる。 平家の命令で、伊東祐親は千鶴丸を殺し、頼朝は、北条の家に逃げ込む。 皆、平清盛(松平健)を「平相国(へいしょうこく)」と呼ぶ。 「相国」は、中国で宰相の称、太政大臣・左大臣・右大臣の唐名。

 1月23日の第3回「挙兵は慎重に」で、北条義時が束になった木の札を見ているシーンがあった。 これが何か、私は見過ごしたのだが、アサブロ「やまもも書斎記」で「木簡」だと教わった。 年貢の荷札か、管理の台帳なのか、武士の経済的基盤である領地、荘園の管理のためのものである。 義時の描き方が、頼朝を担いで平家と一戦交えようとする兄の宗時と違い、やむを得ず兄に引っ張られていくような性格に描かれている。 2月20日の第7回「敵か、あるいは」で、坂東の巨頭、上総広常(佐藤浩市)を味方につけようと説得に行く。 義時は、上総広常に頼朝の下、坂東武者の勢力を結集して平家に対抗しようと説くが、ポロリと自分は次男坊で「木簡」でも数えているほうが性に合っている、と漏らす。 昔、零細工場のわが家では、兄が製造、次男坊の私が経理だった。

 このドラマでは、源頼朝を「すけどの」と呼んでいる。 2月27日の第8回「いざ、鎌倉」。 坂東の武士たちを味方につけて、一行は源頼朝の父・義朝伝来の地である鎌倉へ乗りこもうとしている。 上総広常は、頼朝が「すけどの」と持ち上げられて、一人偉そうにしていて、酒の席にも出て来ないのが不満である。 「すけどの」は「佐殿」、頼朝の伊豆に流される前の官位が、従五位下・右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)だったので、縮めてこう呼んだ。 不満な上総広常は、三浦義村だったかが教えた「武衛(ぶえい)」と、頼朝を呼ぶ。 頼朝は、「佐殿」より「武衛」が上かと思って、ニヤリとするのだ。 「武衛」は、兵衛府およびその官職の唐名、中国風の言い方。

坂東の武士結集、「いざ、鎌倉」へ2022/03/10 07:10

 『鎌倉殿の13人』、「佐殿」と「武衛」を出すため、ちょっと先を急いだ。 「目代(もくだい)」というのがいた、平安中期、国司は私的な代官を現地に派遣して国務にあたらせた。 当時、武蔵国は平清盛の四男・知盛が国司だったから、武蔵国の武士の多くは、平家の家人として組織されていた。 伊豆の「目代」、平家方の代官で威張っている、北条義時が出くわして、土下座しなかったら、馬から降りて土下座させ、泥水に顔を押し付けられた。 治承4(1180)年8月17日深夜、「佐殿」源頼朝を擁して立ち上がった北条時政・宗時・義時父子が出撃、伊豆の目代・山木兼隆、副目代・堤信遠の首を取る。

 しかし、源頼朝、従者安達盛長(野添義弘)たちは、石橋山の戦いで大庭景親(國村隼)らの軍勢に破れる。 前田青邨の「洞窟の頼朝」の絵を、大倉集古館で見たことがある。 洞窟に隠れている頼朝を、大庭の臣・梶原景時(中村獅童)が見つけたが、なぜか見逃す。 梶原景時は、後に頼朝の臣下、13人の1人となる。 そういえば歌舞伎に「石切梶原」、「梶原平三誉石切」という演目がある。 石橋山で頼朝を破った大庭兄弟と梶原が、紅白の梅が満開の鶴岡八幡宮に参拝、老父と娘が売りに来た刀を目利きの梶原が名刀と評価するが、胴二つの試し斬りにわざと失敗して大庭兄弟を去らせ、刀を売るのは頼朝再起の軍資金調達のためと見抜いた梶原が、自分の本心は源氏方にあることを明かして、神前の手水鉢を一刀両断にする。

 2月6日の第5回が「兄との約束」だった。 坂東の武士を結集して、平家と戦って倒す、北条がそれを先導するのだと、義時に打明けていた兄の宗時(片岡愛之助)が、北条の家に観音像を取りに行って殺される。 政子らは、伊豆山権現に隠れる。 北条時政・義時は、甲斐の武田信義(八嶋智人)のもとへ合力を請いに行くが、ままならない。

 北条義時は頼朝を探すも見つからず、待機していた時政らは船を出して安房へ。 頼朝は土肥実平の案内で、真鶴岬から安房へ渡る。

ここで、ようやく第8回の「いざ、鎌倉」に戻る。 三浦義澄・義村と偶発的に戦った畠山重忠(中川大志)が頼朝の臣下になり、先陣を申し付けられる。 頼朝の弟、僧・全成(ぜんじょう)(新納慎也)が駆けつける。 全成は占いをし、暦をみる。 義朝の七男、母は常盤御前、義経の同母兄。 若き義経(菅田将暉)も弁慶(佳久創)らと平泉を出立、乱暴な御曹司として登場した。